戦国大名武田氏最後の当主となったのが、武田信玄の四男・勝頼でした。
本来は諏訪氏を継ぐべく育てられた彼は、異母兄・義信の廃嫡、そして兄たちの不幸のために信玄の後継者となることを余儀なくされます。
ひょんなことから転がり込んできた家督が、彼を破滅に追いやることとなるとは、おそらく父も、本人も予期していなかったでしょう……。
さて、悲劇の武田家当主・勝頼ですが、彼はいったい誰と結婚ていたのでしょうか。
この記事では、武田勝頼の正室・継室・側室についてまとめてみました。
武田勝頼の正室:遠山夫人(龍勝院殿)
武田勝頼が最初に迎えたのはなんと織田信長の養女!でした。
織田家と武田家って長篠の戦いのイメージで敵対してそうですけど、実はずっとそんな感じでもなかったんですよね。
信玄は長年の甲相駿三国同盟を破棄してしまったため、新たな有力な同盟者を求めており、そこに同じく同盟者を求めていた信長と思惑が合致したわけです。
勝頼の正室となった彼女は苗木遠山氏の遠山直廉の娘で、母親が織田信長の妹でした。
信長の姪であった彼女は、永禄八年(1565)頃、織田信長の養女として勝頼の正室となります。
ちなみにこの少し後、永禄十年(1567)ころに信長の嫡男・信忠と信玄の五女・松姫(勝頼の異母妹)の縁談が持ち上がったそうです。
遠山夫人と武田勝頼の結婚は結構謎が多く、いつごろ結婚したのか、いつ頃遠山夫人が亡くなったのかも定かでなかったりします。
ほぼ確実に言えるのは、永禄十年(1567)に遠山夫人が勝頼の嫡子・信勝を産んだことのみですね。
遠山夫人はこの時なくなったとも、出産の少し後、元亀二年(1571)頃に亡くなったとも言います。
この少し後、元亀三年(1572)頃には武田家と織田家の関係は悪化し、武田信玄は上洛をはじめています。
もしかしたら遠山夫人もそのような織田家と武田家の微妙な関係悪化や家中の雰囲気に気をもみつつ、亡くなったのかもしれません……。
なぜか彼女の戒名には「禅定尼」という尼としての名前がついています。もしかしたら勝頼とは別居して出家していたりしたのかもしれません。
勝頼は彼女の死を悲しんでいたようで、彼女の死後家臣を高野山に派遣して供養させています。
また勝頼は彼女の死後、10年ほどは再婚することもありませんでした。
遠山夫人が生んだ武田信勝は父・勝頼の嫡子にして後継者でしたが、天目山の戦いにて、わずか16歳にてその生涯を終えることとなります。
武田勝頼の継室:北条夫人(桂林院)
そもそもかつよりいかてかあく新なからんや、思ひのほにを天にあかり、志んいなをふかからん、我もここにしてあひともにかなしむ。…(中略)…ミきの大くわん、ちやうしゆならは、かつ頼我ともに、志やたんミかきたて、くわいろうこん里うの事、うやまつて申
天正十祢ん二月十九日 ミなもとのかつ頼うち
引用:『武田勝頼夫人北条氏祈願文』
北条氏康と側室・松田殿との間の娘で、北条氏政の異母妹にあたります。
勝頼とはかなり年が離れていました。年齢差は18歳差で実は勝頼の子・信勝の3歳年上!
義理の息子のほうが年が近いわけですね。正直信勝の妻でもよいような……。
北条夫人は14歳で勝頼と結婚しているので、さすがに11歳の信勝の妻となるのは難しかったんですかね。
北条夫人は天正五年(1577年)、武田氏と北条氏の関係強化のために武田勝頼に嫁ぎます。
勝頼との間にはほぼ親子のような年の差ではありましたが、夫婦仲はそれなりに良好だったようです。
二人の間におそらく唯一?波風が立ったのはいわゆる御館の乱(上杉家の家督争い、北条夫人の異母兄弟である上杉景虎と上杉景勝が争い、景勝が勝利、景勝の家督継承後に武田家から菊姫が嫁いだ)の時くらいだったようですね。
しかし、当時はすでに長篠の戦の後……。武田家は徐々に衰亡の道を歩み始めていました。
彼女は衰退しつつあった武田家、そして夫の運命を憂えて、甲斐の武田八幡宮など、寺社に願文などを残しています。(後世の作では?という説もあるそうですが……。)
もしも願いをかなえてくださるならば、勝頼と私は、ともに社殿を磨きたて、回廊を建立いたします……
しかしこの願いはかなうことはありませんでした。
小山田信繁ら、重臣の裏切りの果てに勝頼と一族、そしてわずかばかりの家臣たちは天目山に追い詰められます。
天目山において、彼女は他の女性たちを勇気づけるように、率先してその旨に刃を衝きたてたといいいます。享年わずか19歳。
彼女が死を選んだ理由としては、「御館の乱で夫が異母兄弟の景虎の見方をしなかったから、面目がなくて実家に帰れるはずもないから」という説もあります。
とはいえど、この点に関しては実家の北条家も同様なので、あまり関係がないような気がします。
実家の北条氏はまだ関東の雄であり、そして若かった彼女ならいくらでも実家に戻ることもできたでしょう。
再婚とてありえたかもしれません。
それでも彼女は夫と運命を共にすることを選びました。
並みいる武将たちよりも、ある意味もっとも肝がすわった勇敢な、そして情熱的な女性だったのだろうと思われます。
ちなみに北条夫人と勝頼の間には2男1女がいたとも、あるいは子がいなかったとも言います。
娘がいた場合、勝頼の血を後世につないだ貞姫(宮原氏に嫁いだ)の母親だったかもしれません。
武田勝頼の側室:不詳
武田勝頼の側室に関してはあまり記録が残っていません。
しかし勝頼には正室・遠山夫人との間に儲けた信勝以外にも複数の子がいたと伝わっています。
また、20代~30代だった勝頼が、正室の死後、継室を迎えるまで、10年以上まったく女性とかかわりを持たなかったとは考えづらいですから、おそらく側室は幾人かいたのでしょう、と思われます。
実際信長公記には、勝頼の「御側」、おそらく側室と思われる女性も登場しています。このことについてはまた後述しますね。
武田勝頼の側室?:高畑氏
勝頼の御前 同そば上臈高畠のおあひ
引用:『信長公記』
武田勝頼の末子と伝わる武田信継(本光信継庵主)は、勝頼の子を身籠った母親・高畑氏がおちのびて、勝頼の死後に産んだ子だといいます。
信継は姉・貞姫(高家旗本宮原氏に嫁いだ)の縁で宮原氏の庇護を受け、江戸時代半ば明暦年間まで生きたといいます。
もしもこの話が事実であるならば、勝頼晩年の側室に高畑氏なる女性がいたと思われます。
ちなみに信長公記には「上臈高畠のおあひ」なる女性が登場しているので、もしかしたら彼女のことかも……。
高畑氏については、どうも信濃守護小笠原氏の支流に高畑を名乗る一族がいたようですから、そこの出身だと思われます。