土屋重治 忠義と信仰に板挟みになりながらも主を選んだ男

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

三河一向一揆は家康に多大な苦しみをもたらしましたが、同時に彼らの家臣にも多くの苦しみをもたらしました。

というのも、家康の家臣団には一向宗の信徒も多く、自らの信仰と忠義との板挟みになった者も多かったのです。

たとえば信仰を選んだものとしては、本多正信や夏目広次(夏目吉信)などが有名でしょう。

一方で忠義を選んだものとしては、棄教してまで家康についた石川数正が有名ですね。

とはいえど、どちらかを迷いなく選択できる者が多いわけでなく、戦のさなかでもどちらを選ぶか迷いつつあった者もいました。

今回紹介するのは、主か信仰か、どちらを選ぶかを最期まで迷い続けたある一人の武士の話です。

名は土屋重治、後に久留里藩主・土浦藩主土屋家を輩出する名門武家・土屋氏の傍流に生まれた一人の岡崎武士でした。

土屋重治の前歴

土屋氏と言うと武田氏の猛将、土屋昌続・土屋昌恒兄弟や昌恒の子で大名までなった土屋忠直が有名ですが、土屋一族は甲斐以外にもひろまっていました。

重治は松平広忠の家臣であった土屋惣兵衛(『寛政重修諸家譜』によると、重治自身の通称も「惣兵衛」とあるので、親子で同じ通称を用いたようですね)の子として生まれました。

彼は父が松平広忠に仕えたように、広忠の息子・家康の忠実な家臣として仕えていました。

土屋重治と三河一向一揆

すでに上和田の砦危くみえしとき、重治及び筒井甚六郎某等々はじめ十騎斗岡崎城より助け来る。忠勝等これに力を得て木戸を開て突戦し、終に賊徒を針崎野までをひしりぞく。このときまた賊徒十六七騎駈加はりて挑み戦ふ。重治これがために討死す。

引用:『寛政重修諸家譜』

永禄六年(1563)、三河一向一揆が勃発します。

『寛政重修諸家譜』によると、重治は父子(惣兵衛と重治、重治と息子・重信どちらかは分かりませんが)で、家康方につき、一向宗徒と戦ったそうです。

そして永禄七年(1564)、一向宗徒による上和田砦を攻撃のさなかに、重治は筒井甚六郎らとともに十数名で援軍として駆け付けます。

上和田砦方は苦戦しており、かなり士気も下がっていたそうですが、この援軍に力を得て、一向宗徒を退けることに成功します。

しかし一向宗徒側の援軍も到着し、重治はこの援軍たちと戦っているさなかに戦死を遂げたのだそうです。

『寛政重修諸家譜』では、あくまでも重治は徳川家の忠実な家臣としてふるまったようですが、実は異説もあります。

なんでも『徳川実紀』などによると、土屋重治はもともと一揆方の武士だったと言うのです。

彼は上和田砦攻めのさなか、みずから出陣した家康を見かけ、家康を守ろうとして一揆方から離脱、家康を守って戦死した……といいます。

土屋重治が実際のところ、本当に一揆方だったのかはわかりません。

徳川家康が主人としてそれほど魅力的だったと言ういわばプロパガンダとしてこのような逸話が生まれた可能性も否定はできません。

ただ重治が三河一向一揆のさなかに亡くなったこと、重治の子孫もまた家康のために戦い、亡くなったことのみが事実として伝わります。

土屋重治の子と子孫たち

土屋重治には3人の息子がいました。彼らの子孫は旗本となり、徳川将軍家に仕え続けました。

土屋重治の長男:土屋重信

姉川の役にしたがいたてまつり、奮戦し剣をかうぶる事八所、つゐに戦死す。

引用:『寛政重修諸家譜』

土屋重治の嫡男・甚七郎(または甚助)は、父のように家康の家臣として仕えました。しかし姉川の戦いにおいて、27歳と言う若さで戦死します。

その死にざまはすさまじいもので、なんと八か所も刀傷を負ったほどのものだったとか。

重信に息子はいなかったようで、弟の重利が養子として家督を継ぎました。

重信には娘が一人いたようで、この娘は旗本・島田氏(島田利秀)に嫁ぎ、秀忠の旗奉行を務めた島田重次を産んでいます。

島田重次の子孫からは江戸町奉行などが輩出されていますね。

土屋重治の次男:土屋重利

東照宮につかへたてまつり、のち本多平八郎忠勝に属ししばしば戦功あり。

引用:『寛政重修諸家譜』

重信の弟にして養子でもあった重利は、長吉、また兄の通称を受け継いで甚助とも呼ばれたようです。

重利もまた兄のように早死することとなります。

天正八年(1580、天正三【1575】年説もあり)、武田方が立て籠もる小山城を攻めている最中に戦傷3か所を追いながら戦死を遂げました。25歳だったと伝わります。

重利は多田広忠(詳細不明ですが、武田氏家臣・多田三八郎の親族でしょうか?)の娘を妻にし、息子利清を儲けていました。

この利清はおばの夫である島田利秀に養育され、後に父の跡を継ぐこととなります。

重利―利清の子孫は旗本として、以後徳川将軍家に仕え続けることとなります。

土屋重治の三男:土屋重成

三男・重成は兄たちとは異なり、戦死することなく家康・秀忠の二代に仕えて慶長十六年に死去します。

重成の子孫も旗本として続きますが、重成の孫(もとは加藤氏で養子)・重吉が突如自害し、この家系は途絶えることとなります。

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