「どうする家康」では家康の最愛の妻として描かれている瀬名姫(築山殿)。
この物語の中では今のところ、二人が別れる……なんて姿は思い描けないですが、実はこの二人は離別(離婚)していたのでは?という説もあるそうです。
家康と瀬名(築山殿)の離縁説について調べてみました。
家康と瀬名(築山殿)は別居状態にあった
徳川家康は今川方にとらわれていた瀬名(築山殿)と子供たち2人を、鵜殿氏の子息2名との人質交換で自らの手元に引き取っています。
引き取られたのなら、彼女は家康ともども岡崎城に入る……はずが、なぜか彼女は岡崎城に入ることはなかったのです。
彼女は最初岡崎城外の西岸寺に住み、その後「築山」に住むようになりました。
「築山殿」と言う名前の由来にもなっている「築山」は、岡崎城より1㎞ほど離れた場所にある地名で、彼女はそこに屋敷を立てて暮らしていたことから「築山殿」と呼ばれるようになったのだとか。
つまり家康の手元に戻っていたにもかかわらず、なぜか別居していたのですね。(息子の信康は徳姫との結婚時に岡崎城に入った、とする話もあるので、もしかしたら息子ともども別居状態だったのかもしれません。)
瀬名(築山殿)は、のちのち信康が岡崎城主となった際に、城主の母として岡崎城に入りました……。
が、実は同時に家康は本拠を岡崎から浜松に移したため、まったく同居することはできなかったようです。
実際に瀬名(築山殿)が子供2人を産んだのは桶狭間の前のことですから、彼女は桶狭間の前哨戦で戦に出た夫を見送った後は、同居することはほとんどなかったのでしょう。
家康と瀬名(築山殿)の離縁の証拠?
大雪ふり三尺、信康御母さまより音信被成候
引用:『家忠日記』
家康の親戚で家臣でもあった松平家忠は『家忠日記』と呼ばれる長大な日記を残しています。
家康周辺の動きが分かる貴重な史料なのですが、その中で一か所、築山殿と思われる女性に言及した箇所がありました。
家忠は築山殿のことを「信康御母さま」と表記しています。この表記、実は結構違和感のある表記だったりします。
家康は瀬名(築山殿)の死後数年たって、豊臣秀吉の妹・旭(朝日)と再婚しますが、家忠は旭のことを、「御前様(御前さま)」と表記しているのです。
同じように家康の妻でありながら、片一方は家康嫡子・信康の母という名で呼ばれて、片一方は御前=つまり家康の妻、と言う意味の称号で呼ばれているのですよね。
ちなみに同じような立場であるはずの家康の母・お大の方は「御方さま」と、言う風に呼ばれており、「御母さま」という表記ではないのです。
ちなみにこの表記ゆえに、瀬名(築山殿)は岡崎の徳川家臣団の間では離縁されていると言う認識だった、という説もあります。しかしそこまで言い切れるかと言うとちょっと……。
ただ、家忠が意図してこの表記を使ったのか、無意識に使ったのかは分かりませんが、やはり徳川家臣団の間では築山殿の立ち位置はかなり微妙な存在だったのではないでしょうか。
正室には実家の権力なども求められている時代です。(例えば、戦の時に妻の実家に助力してもらう……なんてこともありました。)
すでに実家は滅亡状態、衰亡した今川家ゆかりの姫君というのは、はっきりいって政略での使いようがないわけです。
築山殿(瀬名)のつらい立ち位置が見て取れるような表記だとも思われますね。
家康と瀬名は本当に離縁していたのか?
瀬名(築山殿)が多分徳川家の間で微妙な立場だっただろうな……と思われることについては以上のとおりです。
それらも踏まえたうえで、瀬名(築山殿)と家康は離縁していたのか?ということですが……、私は、結局のところ二人は離縁してはいなかったのだろうと思います。
まず、本当に離縁していたのならば、さっさと他の女性と再婚している可能性が高いからです。
家康の両親・松平広忠とお大の方がそうですよね。彼らは実家の方針の違いやらなんやらで離縁しています。
その後すぐに広忠は真喜姫(戸田康光の娘)と再婚し、お大の方自身も久松長家と再婚しています。
とくに家康は織田家と同盟していますから、それこそ息子・信康が信長の娘・徳姫と結婚したように、自身もまた織田家の縁者(信長の姉妹や親族など)あたりと再婚した方が良いでしょう。
それをしなかったということは、少なくとも家康自身は瀬名(築山殿)と離縁したと言う認識はなかったのかと思われます。
また、家康と瀬名は別居状態でこそありましたが、家康の側室の一人・お万の方(長勝院)は、瀬名が認められなかったため、秘密裏に家康の次男を産んだといいます。
つまり、正室として奥向き=夫の側室の管理をしていたということが風聞として残されているわけですね。
これらのことから考えると、やはり家康と瀬名(築山殿)は、信康事件の余波で瀬名(築山殿)が非業の死を遂げるまでは夫婦として添い遂げていたかと思われます。