家康の人質時代からの側近であり、徳川四天王・徳川十六神将の筆頭格と言われるのが、酒井忠次です。
三河一向一揆などの時にも、一族に背いてまで家康に仕えるなど、家康へ高い忠誠を示し続けました。
そんな酒井忠次の妻(正室・側室)はどのような女性たちだったのでしょう。気になったので調べてみました。
酒井忠次の正室:碓井姫(松平清康の娘・吉田殿とも)
酒井忠次の正室は、家康の祖父・松平清康と家康の外祖母・お富の方との間に生まれた家康の叔母・碓井姫です。(家康の父は、お富の方の連れ子であったお大の方と結婚し、家康が生まれました。)
他の徳川四天王の妻たちと比べても、家康とかなり血縁関係の近い女性を酒井忠次は妻にしていたのですね。
碓井姫という名前は、おそらく息子の松平家次が下総碓井藩主だったことにちなむ名前でしょう。彼女自身の本来の名前は「於久」だったとも言われています。
碓井姫の別称の「吉田殿」は三河の吉田城に住んでいたことからの称号です。
生年については諸説あるようですが、一説には享禄二年(1529)生まれと言います。酒井忠次の2歳年下ですね。
ちなみに酒井忠次は初婚(結婚前にも側室はいたかもしれないですが)ですが、碓井姫は再婚でした。
碓井姫は、もともと松平家の一族である長沢松平家の松平政忠と結婚していました。
二人の間には松平康忠が生まれましたが、松平政忠は桶狭間の戦いで討ち死にしてしまいます。
碓井姫は嫁ぎ先の長沢松平家に息子・康忠を残して、酒井忠次との再婚に踏み切りました。(おそらく家康の意向が強かったのではないでしょうか。)
二人の間には酒井家次、本多康俊が生まれています。三男の小笠原信之は側室所生とも、碓井姫所生ともいいます。
酒井家次の子孫は庄内藩主酒井家として、酒井左衛門尉家の総領の座を継承しました。
次男の本多康俊は徳川氏家臣・本多忠次の養子となって本多彦八郎家の祖となっています。本多康俊の子孫は膳所藩主となりました。
碓井姫は、慶長17年(1613年)11月27日に亡くなっています。
酒井忠次の側室:山県昌景の娘
酒井忠次の側室には、武田氏の重臣であった山県昌景の娘がいると伝わります。
彼女については諸説ありますが、山県昌景の長女で、善光寺別当栗田寛久(栗田鶴寿)の妻であった福という女性ではないかと言われています。
山県昌景の長女・福は善光寺別当にして武田氏の家臣でもあった栗田寛久に嫁いでいましたが、夫の栗田寛久は高天神城の戦いにおいて戦死しました。
その後、彼女は酒井忠次の庇護下に入ったと思われます。
福と栗田寛久の間に生まれたと思われる栗田永寿は、大須賀一徳斎を後見人として寺領を安堵されましたが、その際に酒井忠次が保証人の役割を果たしています。
山県昌景の娘は、酒井忠次の四男・松平久恒を産みました。
松平久恒は、松平氏の庶流である福釜松平家の松平左馬助親俊の娘と結婚し、婿養子となりますが、「ゆへありて」つまり何らかの事情により、酒井家に帰ってきています。
松平親俊は晩年に息子康親を得ていたため、実子を後継者にするために養子縁組が解消されたのかもしれませんね。
久恒はその後兄の酒井家次、甥の酒井忠勝など庄内藩酒井家に仕えています。(一時期松平隠岐守家に仕えたりはしていましたが……)
藩主の弟、叔父ということもあり厚遇され、2千石を拝領し、さらに亀ヶ崎城代、家老と言った重役を歴任しました。
久恒の子孫はその後も松平氏を名乗り、兄の家である庄内藩酒井氏の重臣である松平甚三郎家、松平武右衛門家を形成していきました。
酒井忠次の側室:京都桜井屋敷の世話係の女(小山十兵衛の娘)
豊臣秀吉により、晩年眼病を患った酒井忠次の世話係として配された女性です。
一説には、近江国の武士である小山十兵衛の娘と言います。
彼女は酒井忠次が秀吉から拝領した京都桜井屋敷で、酒井忠次の晩年をともに過ごし、忠次の死の3年前に忠次の五男・酒井忠知を産みました。
息子の酒井忠知は若いうちに徳川秀忠の小姓となった後、幕府に仕えて江戸町奉行となりました。
酒井忠次の側室:小笠原信之の母・松平伊昌室ふうの母・牧野康成室の母
酒井忠次の三男である小笠原信之、酒井忠次の長女である松平伊昌室ふう、酒井忠次の次女である牧野康成室は、いずれも側室某氏の所生であると言われています。
おそらく3人とも母は違うのではないかと思われるのですが、母の名字等々もすべてわからないため、もしかしたら同母かもしれません。
酒井忠次の側室?:松平信康の侍女
酒井忠次は、家康の長男である松平信康の侍女を側室としていたと伝わります。
そのため、信康と酒井忠次の関係はあまり良好でなく、このことも一因となって後に信康切腹へとつながる……とも言われています。
もしかしたら、小笠原信之の母、松平伊昌室ふうの母、牧野康成室の母である可能性が否定できません。