小学校中退でありながら、様々な新種を発見し著作を残したことで、「日本の植物学の父」と呼ばれるのが牧野富太郎です。
2023年の朝の連続テレビ小説『らんまん』では、神木隆之介さん演じる主人公・槙野万太郎のモデルとなったことでも、話題となりましたね。
そんな牧野富太郎の妻(正確には2番目の妻)が、「牧野寿衛子」です。牧野富太郎は新種の笹に彼女の名前をつけて「スエコザサ」とするなど、寿衛子夫人に対して愛情深かったようです。
牧野富太郎夫人・牧野寿衛子について調べてみました。
牧野富太郎と小澤寿衛子の出会い(なれそめ)
牧野富太郎は造り酒屋の跡取り息子でしたが、酒屋の仕事は祖母と番頭に任せっぱなしでした。
富太郎の関心はあくまでも植物にあり、彼は気ままに植物採集や本草学(江戸時代以来の医薬に関する学問)、植物学に熱中します。
若き富太郎は、造り酒屋の跡取りとして、従姉妹にあたる猶(なお)と結婚しました。
猶は富太郎の実家である造り酒屋の仕事を手伝っていたことから、周囲の人間が結婚を勧めたようですね。
結婚までした富太郎ですが、結局造り酒屋の仕事には関心を示すことが出来ず……。
後々この従姉妹とは別れ、造り酒屋の仕事も放りだしてしまいます。
小学校の臨時教員として働く傍らで高地師範学校教諭・永沼小一郎から欧米の植物学に触れた彼は、次第に東京の最新の植物学に関心を示すようになりました。
明治17年(1884年)、22歳の時牧野富太郎は上京します。
小学校中退と言う学歴もあってか、学生にはならなかったようですが、帝国大学理科大学の矢田部良吉の研究室の利用許可を得て、植物学者の道をスタートさせました。
そして、このころ、牧野富太郎は運命の出会いを果たします。
彼は東京・麹町に下宿し、本郷の帝国大学に通っていました。その道すがらには菓子屋がありました。
酒を飲まない(造り酒屋の子なのに……)牧野富太郎はそこで良くお菓子を買っていたようですが、そのうちにお菓子だけでなく、お菓子屋の娘も気になっていってしまったのです。
娘の名前は小澤寿衛子。牧野富太郎は彼女のことを「美しい娘」と表現しています。本当に大好きだったんですね……。
明治23年(1890)に二人は結婚します。牧野富太郎はこの年28歳でした。寿衛子は牧野富太郎のおよそ11(12)歳下のため、17歳(16歳)だったと思われます。
牧野富太郎と牧野寿衛子の子供たち
牧野富太郎と寿衛子の間には多くの子供たちが生まれたようです。一説には、13人の子供が生まれたとも。
ただ現代よりも医療が未発達な明治時代のこともあり、多くの子供たちは成長することが出来ませんでした。
牧野富太郎と寿衛子のこどものうちで成長したのは7人だと言われています。
二人の間に生まれた子供のうち、名前が分かっているのは、長女・香代子、次女・鶴代子、長男・春世、次男・百世、三男・勝世、三女・己代子、四女・玉代子(玉代)の3男4女ですね。
このうち末娘の玉代はのちに岩佐家に嫁いで、岩佐玉代となったようです。牧野富太郎の蔵書を牧野文庫に寄贈したりしているようですね。
また玉代さんの娘のまゆみさんも、祖父牧野富太郎との思い出を語ったことがあるようです。
ちなみに、牧野富太郎の孫娘にあたる岩佐まゆみさんいわく、「一族には植物学者と結婚した人も、植物学者になった人もいない」とのことです。
牧野寿衛子は金策に奔走した
※見出しに誤字の指摘有りましたので直しています。
さて、牧野富太郎と寿衛子夫人の間には多くの子が生まれましたが、牧野富太郎はとにかくお金に関心がなく、金欠でした。
もともとは番頭もいるような、土佐の立派な造り酒屋の息子だったのですが、このころには実家を支えていた祖母も亡く(富太郎の両親は早死にしています)、実家は親戚の人(一説には、前妻であった猶とも)に任せていました。
寿衛子自身も生家は菓子屋ですから、お金持ちとはいいがたい状況です。
寿衛子は一念発起します。なんと渋谷の荒木山(今の渋谷区円山町)に、料亭……といえば聞こえはいいですが、「待合」を開いたのです。
その待合で稼いだお金を夫の研究費に使用したのです。
とはいってもなかなか大変で、家には借金とりが押し掛けるわ、家財道具は競売にかけられるわと大変でしたが……。
それでも寿衛子夫人は牧野富太郎を支え続けました。
牧野富太郎の研究拠点となった東大泉の牧野邸も、寿衛子夫人が待合で稼いだお金が元手になって土地を借りることが出来たと言われています。
牧野寿衛子の死と「スエコザサ」
昭和三年(1928)、牧野寿衛子は56歳で亡くなりました。牧野富太郎は前年に発見していた新種の笹に、妻を偲んでその名を付けます。「スエコザサ」と。
かつて牧野富太郎は、シーボルトがアジサイに「オタクサ」と学名をつけたのは、日本での妻「お滝」にちなむことを指摘していました。
先人がかつて行ったことと同じことを、牧野富太郎もまた行ったのです。
彼の研究人生を支え続けた妻への、深い愛情を感じるエピソードと言えるでしょう。