夢破れるも歩み続けた女教師・吉益亮子(りょう)

近代史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

日本初の女子留学生と言えば、言わずと知れた津田梅子の名前があがることでしょう。

では他には?と言われた場合、歴史に詳しい人ならば、山川(大山)捨松や、永井(瓜生)繁子の名前があがるかもしれません。

彼女たち3人は長きにわたって米国留学を果たしましたが、実は彼女たちには、あと2人ともに留学をした仲間がいました。

留学してから1年ほどで帰国の途につくことになった彼女たちですが、一人は上田悌子、そしてもう一人の名前は吉益亮子(りょう)といいました。

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吉益亮子(りょう)の出自

吉益亮子は、幕臣と思われる吉益正雄の娘として生まれました。

『寛政重修諸家譜』内に、江戸城の番医師を務めた「吉益」家のことがのっているので、吉益正雄、ひいては吉益亮子は、医術家の吉益家の流れを汲んでいるのかもしれません。

父の吉益正雄は明治時代には官僚となっており、秋田県典事や東京府の役人、また、明治に入ってすぐには外務省の管理として出仕していたことも分かっています。

ちなみに、同じく女子留学生だった上田悌子の父・上田友助とは、外務省時代に同僚だったと思われます。

吉益亮子がなぜ留学生に選ばれたのかはよく分かりませんが、父・正雄が外務官僚だったことが影響しているのかもしれません。

吉益亮子(りょう)と岩倉使節団

吉益亮子は、明治四年(1871)に、岩倉使節団の一員・女子留学生としてアメリカ行きの船に乗りました。

同じように女子留学生に選ばれたのは、上田悌子、山川(大山)捨松、永井(瓜生)繁子、津田梅子の5人でした。

山川(大山)捨松は12歳、永井(瓜生)繁子は10歳、津田梅子は9歳とかなり幼い年齢でしたが、上田悌子と吉益亮子はこの時16歳でした。

二人は留学生の女子たちの中では年長者でしたから、いろいろと気をまわしたのではないでしょうか。

津田梅子と吉益亮子(りょう)

留学当初、吉益亮子は最年長だったこともあってか、津田梅子とともに行動を共にしていました。

吉益亮子と津田梅子は、ともにワシントン郊外ジョージタウンの日本弁務使館書記官・チャールズ・ランマン(ランメンとも)夫婦の家に身を寄せます。

さらに、留学から半年ほどたった明治五年(1872)5月には、ワシントン市内の1軒家で留学生5人は生活をともにするようになりました。

当然ながら、梅子と亮子は一緒の生活を送ることになります。

留学からの帰国後、吉益亮子は教育者の道を歩み始めますが、津田梅子もまた教育者として足を踏み出すことになります。

帰国後の二人にやり取りがあったのかどうかは分かりません。

しかし、吉益亮子の死後、津田梅子は上田悌子らと吉益亮子の思い出話などをしたこともあったようです。

津田梅子にとって、吉益亮子は間違いなく深い思い出のある人だったのでしょう。

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吉益亮子(りょう)と上田悌子(てい)、志半ばでの帰国

留学から1年もたたないうちに、吉益亮子と上田悌子は病に倒れます。吉益亮子の病は眼病、上田悌子は重篤なホームシックにかかったといいます。

明治五年(1872)10月、留学開始からわずか10カ月ほどで、吉益亮子と上田悌子は帰国することとなりました。

この帰国は二人の心に大きな後悔、申し訳なさを残したようです。

しかしだからといって、二人は海外への思いをすぐにあきらめたわけではありませんでした。

吉益亮子と上田悌子は、横浜に作られていたミッションスクール、アメリカン・ミッション・ホームで英語の勉強を続けます。

上田悌子はのちに結婚し、家庭に入りましたが、吉益亮子はその後、英語教師の道を歩み始めました。

吉益亮子が最初に教職についたのは、津田梅子の父・津田仙によって作られた女子小学校(海岸女学校、現在の青山学院女子短期大学の前身)でした。

彼女は明治八年(1875)から、明治十三年(1880)頃まで、教鞭をとっていたようです。

吉益亮子の死因

吉益亮子の父・正雄はそんな娘や、あるいは同僚だった上田友助らに影響を受けたのでしょうか。明治十八年(1885)に、私塾「女子英学教授所」を設立します。

亮子は父の作った女子英学教授所の教師になりました。

しかし明治十九年(1886)、吉益亮子は前年より大流行していたコレラに罹患し、30歳で亡くなってしまいます。

彼女の早い死は、残された4人の女子留学生たちにとって大きな傷となって残り続けました。

吉益亮子は結婚していたのか?

吉益亮子は結婚していたのでしょうか?実は彼女が結婚していたのかどうかはよく分かっていないのです。

吉益亮子の来歴の中では、アメリカン・ミッション・ホーム入学後~海岸女学校で教鞭をとるまでのおよそ3年~4年、そして海岸女学校を退職してから女子英学教授所の教師となるまでのおよそ6年間のことが空白となっています。

もしかしたらその間に、結婚をしていたこともあったかもしれません。

ただ当時の社会を考えるならば、家庭を持った女性が働きに出るのは非常に大変なことだったでしょうから、ずっと独身であった可能性もそれなりにありそうです。

もしくは、一度結婚しても離別していた可能性もあるでしょう。

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