渋沢栄一の妻たち

2021年の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公、渋沢栄一。第一国立銀行や理化学研究所、東京証券取引所といった多種多様な会社の設立・経営に関わり、「日本資本主義の父」とも呼ばれている偉大な人物です。

吉沢亮さん演じる渋沢栄一ですが、2度の結婚をしています。また、美女に目がなく、愛人もいたようで庶子も何人かいます。
渋沢栄一を支えたであろう彼女たちについてまとめました。

最初の妻:尾髙千代

武蔵国榛沢郡下手計村の名主、尾高勝五郎保孝と渋沢やへ(渋沢栄一の伯母)との間に生まれた娘です。つまり、渋沢栄一の従妹にあたります。
ちなみに千代の兄の尾高惇忠も実業家として活躍し、富岡製糸場の初代場長となりました。

1858年12月7日に、渋沢栄一と結婚しましたが、尊王攘夷思想にのめりこんだ夫は、結婚のわずか2年後に江戸に向かってしまいます。しばらく別居していたようですが、のちに千代も江戸へ向かい、ようやく同居しました。

とはいえど渋沢栄一は幕臣としてフランスに行くなど、離れ離れの時期も多かったようです。渋沢栄一はフランスから千代に「心変わりしないでくれ!」みたいなお手紙を送ったりしています。自分は浮気するけど、奥さんに浮気されるのは嫌だったんでしょうか、

最初に生まれた市太郎は赤ちゃんのうちに亡くなりましたが、そのあと、歌子、琴子、篤二の3人の子供を産みました。渋沢栄一には庶子は何人かいますが、今わかっている範囲では、千代が妻の間には庶子は生まれていないようです。(千代との結婚前と、千代の死後に生まれているようです。ただ大内くにとの間に生まれた照子は、もしかしたら千代との結婚中に生まれているかもしれません。)

1882年、コレラにかかり、41歳で亡くなりました。

後妻:伊藤兼子

千代の死の翌年、渋沢栄一は伊藤兼子と再婚しました。

兼子は水戸藩の金子御用達であった豪商・伊藤八兵衛の娘です。もともと18歳の時に近江出身の婿を取って、家を継いでいました。しかし、父が為替投機で失敗したため実家は没落し、夫とも離縁することになってしまいます。

生活苦に苦しんだ兼子は、芸者になるために両国の口入れ屋に頼みました。すると、渋沢のもとへの妾奉公の話が持ち上がりました。そして、千代をなくしたばかりの渋沢栄一と結婚しました。驚くべきことに、当時渋沢栄一が住んでいた家は、兼子の実家が没落時に手放したものだったといいます。

武之助、正雄、愛子、秀雄の4人の子供を産みました。

もしかしたら最初の恋人……?愛人その1:大内くに

出張先の大阪で作った妾ともいわれていますが、詳細不明です。生没年も不明です。

一説には、千代との結婚前の1853年に、渋沢栄一との間に庶子・ふみを生んだと言われています。ふみは、のち尾高惇忠の子・尾高次郎の妻になりました。

ただふみの生年には諸説あるようで、実際には1870年代に生まれたとも言われています。その場合、大内くに自身が1853年生まれとされているようです。こちらのほうが自然ですかね……。

また、いつ生まれたのかは分かりませんが、庶子・照子もくにが生みました。この照子は、千代の姉の子である大川平三郎に嫁ぎました。

もしも1853年に渋沢栄一との間に庶子ふみを産んでいたとしたら、渋沢栄一の出身地・武蔵国榛沢郡血洗島村に住んでいた女性でしょうか?

大阪出張中に作った妾だとしたら、栄一や妻(千代、兼子)と同居していた可能性もあるそうです。

追記)

大内くには、どうも大阪出張中に作った妾で間違いないようですね。もともと大内くには宮廷につかえる女官だったようです。その時は、高級女官の高倉寿子に仕える女嬬という役職についていたとのこと。大内くにの実家の情報は分かりませんが、もしかしたら千代より家柄は良かったのかもしれないですね。また、千代の存命中に娘2人を産んでいたようです。

大河ドラマでは、未亡人のような感じでしたが、大内くにが未亡人だったかどうかは分からないですね。女官だった時はおそらく未婚だったと思うのですが……。

愛人その2:田中久尾

大阪から連れてこられた妾で、長年の付き合いだったようです。深川福住の自宅に同居していました。年齢は20代前半でした。

愛人その3:鈴木カメ

日本橋浜町の別宅にいたそうです。もともとは吉原仲ノ町の林家の遊女「小亀」だったそうです。年齢は20代前半でした。

渋沢栄一の最後の子供は80歳過ぎてからの子供(もちろん愛人との間の子供)だそうです。おそらく名前も知られていない愛人がいっぱいいたのだろうと思います。

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