渋沢篤二の妻と息子たち

近代史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

大河ドラマ『青天を衝け』の放送も、あと残すところ1カ月ほどになりました。
残り1カ月のキーマンとなりそうなのが、渋沢栄一の、後に廃嫡されることとなる嫡男・篤二です。

そんな渋沢篤二の妻と息子たちについて、改めていろいろと調べてみました。

渋沢篤二の妻:橋本敦子

公家の橋本実梁の娘。橋本実梁が46歳の時の子供で、父の橋本実梁は、敦子が5歳になることろには亡くなっています。
母親は不明ですが、父の正妻である谷定子(丹波国山家藩主谷衛昉の娘)の可能性もありますね。

父の橋本実梁は養子のため、義理の関係性にはなりますが、義理の大叔母に十四台将軍家茂正室・和宮の生母である観行院、義理の叔母に明治天皇の側室・橋本夏子がいます。このように橋本家は、天皇家ともかなり近しい家柄であることがわかります。

そんな敦子は、1895年、15歳の時に渋沢篤二に嫁ぎます。篤二は敦子より8歳年上でした。結婚した翌年には長男敬三を、さらに続けて次男信雄、三男智雄を産みました。このころには篤二ともども、福住町の渋沢栄一邸に住んでいましたが、のちに独立して三田綱町の邸宅に住むようになります。

しかし、篤二は次第に敦子ではなく、他の女性を愛するようになっていきます。長男敬三が中学生になるころには、篤二は敦子や息子たちと一緒に暮らしていた三田綱町の家を出て、芝白金に別宅を構えるようになりました。

篤二の廃嫡後は、しばらく三田綱町の家を離れ、本郷西片町や高輪車町など様々な借家を転々としつつ、息子たちを育てました。実家にも義実家にも戻らず、家を転々とした理由は分かりませんが、篤二の廃嫡問題で敦子もいろいろと考えることがあったのかもしれませんね。しかし、4年ほどで再び三田綱町の家に戻ったようです。

敦子と篤二の長男、敬三は第二高等学校に合格するなど、父に比べて秀才であったようで、敬三が篤二を飛び越えて後継ぎとして地盤を固めるようになります。敦子は夫とは事実上の離婚状態でしたが、渋沢家の跡継ぎの母として、子供の成長を楽しみに暮らしたようですね。

渋沢篤二の息子たち

渋沢篤二には、正妻敦子との間に3人の息子がいました。祖父栄一の跡継ぎとなった敬三、次男信雄、三男智雄の3人です。

長男:渋沢敬三

父・篤二に代わって栄一の後継者となったのが渋沢敬三です。孫でありながら後継ぎ、ということもあって栄一とは深い絆で結ばれており、祖父栄一のことを後世に伝えるため、篤二のために栄一が作った「竜門社」と協力し合いながら、栄一の伝記資料をまとめ、発刊したことでも知られています。

敬三は栄一同様、財界人として第一銀行、日銀総裁、さらには大蔵大臣などを歴任します。ただ本人は経済活動よりも、学問のほうが好きであったそうです。学生時代も、民俗学や動物学に熱中し、学者になることを当初目指していたそうですが、祖父栄一たっての頼みで経済の道に進むことを決意したという逸話が残っています。

敬三の学問への情熱は結局途絶えることなく、彼の民俗学にまつわるコレクションが大阪吹田の国立民族学博物館に収蔵されるなど、民俗学に関して大きな影響を与えています。

ちなみに、敬三は岩崎弥太郎の孫娘・木内登喜子と結婚し、二男二女に恵まれました。ただ登喜子とはあまり関係性は良くなかったようで、戦後登喜子は家をでていってしまいます。ただ登喜子とは終生離婚することはなかったようです。

岩崎弥太郎と渋沢栄一は実は親戚関係になっていたのだと思うと、ちょっと面白いですね。

次男:渋沢信雄

敬三の弟・信雄も兄同様、経済活動にいそしみます。信雄は、「福本書院」というドイツ書の輸入業を経営したり、秩父鉄道や秩父セメントなどの各種取締役を歴任しました。

信雄の妻は、母敦子と同名の「敦子」である齋藤敦子です。齋藤敦子は英語学者・齋藤秀三郎の娘でした。彼女との間に2人の息子を儲けています。

三男:渋沢智雄

智雄も、兄敬三同様財界人として活動しています。彼は渋澤倉庫の常務取締役や、朝鮮興業取締役などにつきました。また、日本アイ・ビー・エムの前身である日本ワットソン統計会計機械の取締役にもついています。

妻の中村節子(中村勇三郎の姉)との間に三男二女を儲けています。

余談 渋沢篤二の愛人(妾):玉蝶(岩本イト)

玉蝶の本名は、一説には「岩本イト」だと言われています。年齢は、篤二より15歳年下で、1887年生まれでした。彼女は新橋芸者と呼ばれる芸者で、当時のあまたの財界人と浮名を流していました。出会ったとき、篤二は40歳、玉蝶は24歳でしたが、あっという間に篤二はのめりこんでしまいます。

玉蝶は芸者をやめ、篤二とともに暮らすようになり、約20年、篤二が死ぬまで白金の邸宅で同居します。玉蝶は篤二をみとった後、篤二の遺骸引き渡しを拒みますが、結局篤二の息子・敬三の懇願に負けて遺骸を引き渡しました。

玉蝶が亡くなったのは戦後しばらくたった1955年ごろとも、篤二死後に広島に移り住んで原爆によって亡くなったとも伝わっています。

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