徳川昭武の母と妻と子たち

近代史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

『青天を衝け』で、板垣李光人さんが演じることになったのが、徳川慶喜の弟・徳川昭武です。最後の水戸藩主になった徳川昭武は、渋沢栄一とともに、パリ万国博覧会の使節団として渡欧しました。

徳川昭武の母:秋庭(万里小路睦子)

公家の大納言・万里小路建房の六女で、睦子という名前です。徳川斉昭の側室として、昭武を産みました。公家出身ということを考えると、徳川斉昭正室・吉子女王の侍女、もしくは斡旋で側室になったのかもしれませんね。

睦子の姉妹の1人、万里小路幸子は孝明天皇の正妻・英照皇太后や明治天皇の正妻・昭憲皇后に仕えるなど、女官として非常に活躍したそうです。また岩倉具視の父・堀河康親と結婚した女性もいるみたいです。

彼女は昭武以外にも、有栖川宮熾仁親王(徳川家茂正室和宮の元婚約者)妃茂姫/貞子、松平昭訓、松平頼之などを産んでいます。晩年は息子の側室・八重とともに、徳川昭武の別邸・戸定邸にて暮らしていたようです。

徳川昭武の正室:盛子(栄姫・瑛姫とも)

公家中院通富の娘として1861年ごろに生まれました。昭武とは少し年が離れていますね。父の中院通富は東山天皇の血をひいているため、世が世なら皇族の姫君であってもおかしくないような家柄の女性です。

明治8年(1875年)に昭武と結婚しますが、結婚後すぐに昭武は渡米、さらにフランスへ留学し、帰国したのは明治14(1881)でした。詳細は分かりませんが、おそらくその間盛子は一人で留守を守ったのではないでしょうか?

昭武の帰国後、明治16年(1883)1月に待望の長女・昭子を出産しますが、盛子の体はたいそう弱っていたようで、翌月の明治16年(1883)2月に死去します。

その後昭武は公には後妻を迎えることはありませんでした。同年5月に昭武は隠居し、甥の篤敬に家督を譲っています。正室・盛子の死が与えた影響はそれなりに大きかったのではないでしょうか。

長女・昭子は旧高松藩主家出身の伯爵・松平頼寿と結婚しました。しかし、昭子が子供を産むことはありませんでした。その代わり昭子は、松平頼寿の甥の松平頼明を養子として育てました。

徳川昭武事実上の後妻にあたる側室:斎藤八重

明治16年(1883)2月に昭武の正室、盛子は死去しました。

同年の10月ごろに昭武の妾として、事実上の後妻の位置に入ったのが斎藤八重です。おそらく正室の死後に、後継ぎなどを残すために側室として入ったのでしょう。(ただ明治13年(1880)まで「妾」が妻と同等の二親等として戸籍で公認されていた……ということを考えると、もしかしたら盛子生前にすでに妾となっていた可能性も無きにしも非ず?)

八重の父、斉藤貫行は静岡県士族だったといいますから、八重は武家の娘ではあったようです。静岡県士族の娘ということは、もしかしたら徳川慶喜や、慶喜の次の徳川家当主・家達に仕えていた旧幕臣の娘かもしれません。

八重は早世した長男、三男を含め三男三女と多くの子供を産みました。次女・政子は子爵毛利元雄夫人、三女・直子は男爵松平斉光夫人、四子・温子は子爵京極高修夫人となっています。次男の徳川武定は新たに「松戸徳川家」を立て、その当主として子爵となります。

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