北条政子の死因は病気?どのような病気だったのか?

中世史(日本史)

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鎌倉幕府所代将軍の妻にして、執権となる北条家の栄華を導いたのが北条政子です。

彼女の人生の最後のハイライトといえば、承久の乱になるでしょうが、そんな彼女の最期はどのようなものだったのでしょうか。

北条政子の死因について、調べてみました。

北条政子の死因は病死

嘉祿元年七月小六日乙丑。晴。前權侍醫和氣定基〔定經男〕自去夜爲二位家御療治參候。是日來頼經朝臣奉加療治之處。御不例之体。其憑不御之間。匪治術之所及由。依辞申也。

八日丁卯。晴。辰刻。二品東御所令渡御給。是御違例既危急之故也。

十一日庚午。晴。丑刻。二位家薨。御年六十九。是前大將軍後室。二代將軍母儀也。同于前漢之呂后令執行天下給。若又神功皇后令再生。令擁護我國皇基給歟云々。

引用:『吾妻鏡』

北条政子の死は病気による病死でした。

彼女のために典薬頭(朝廷の医者のトップ)を代々継いでいた和気家からは和気定基、同じく代々継いできた丹波家からは丹波頼経が治療にあたっていたようです。

しかし、丹波頼経は、良くなる気配がないからと治療を途中で辞退しており、和気定基が政子の死まで主治医としてあたっていたようです。

しかしその治療の甲斐もなく、嘉禄元年七月十一日、波乱に満ちたその生涯を終えることとなります。

北条政子の病気は何?流行り病の可能性もあり

北条政子がいかなる病で死んだのかはよく分かっていません。

北条政子が亡くなったのは嘉禄元年(1225)七月十一日のことでしたが、彼女が体調を崩し始めたのは、そのおよそ2カ月前、嘉禄元年五月二十九日のことだったようです。

五月小廿九日己丑。二位家御不例云云。

引用:『吾妻鏡』

そのあと、彼女はたびたび意識を失ったりしています。

ちなみに、彼女が体調を崩し亡くなるまでの約2カ月の間に、「鎌倉殿の13人」こと十三人の合議制メンバーである大江広元が痢病(まあ下痢ですね)で亡くなっています。

北条政子も、夏の暑さもあって病がどんどん悪くなったのかもしれません。

五月小一日辛酉。弁僧正定豪。大藏卿法印良信。駿河前司義村。隱岐入道行西。并陰陽權助國道等依召而參會。二品以行西被仰出云。當時世上病死之者及數千爲攘其災。心經尊勝陀羅尼各萬巻可被書寫供養。

引用:『吾妻鏡』

北条政子の病がどのようなものだったのかはあまり症状が分からない(意識消失くらいしか記載がない)ので、断定はできませんが、この嘉禄元年五月は全国的に疫病が流行っていたとのことです。

もしかしたら、政子も最初は流行り病にかかったのかもしれませんね。

この時、すでに北条政子はブレーンでもあった弟・義時を失っています。

さらに大江広元ら、夫頼朝とともに鎌倉幕府を作ってきた仲間たちとも、死に別れているわけです。

老体であったこと、流行り病、また精神的なものなどもあって、一気に体調を崩し、そのまま床について起き上がることができなくなったのかもしれません。

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