渋沢篤二 廃嫡された渋沢栄一の長男

渋沢栄一と先妻・尾高千代との間に生まれた長男が渋沢篤二です。

渋沢栄一死後、栄一一族の総領となるはずだった渋沢篤二ですが、実は父親から「廃嫡」(後継ぎとしない)されてしまっています。そんな渋沢篤二さんはどのような人物だったのでしょうか。ご紹介します。

渋沢篤二 名前の読み方は「しぶさわ とくじ/あつじ」どちら?

「渋沢篤二」さんなんですが、物によって名前の読み方が「とくじ」だったり「あつじ」だったりします。読み方はどちらが正しいんでしょうね?

一応「国立国会図書館典拠データ検索・提供サービス(https://id.ndl.go.jp/auth/ndlna/00070471)」では「とくじ」になっているので、公的な読みは「とくじ」ではないかと思われますが……どうなんでしょうね。

本当は長男ではなく次男?

渋沢篤二は渋沢栄一と尾高千代の「長男」と紹介されることがほとんどですが、実は両親の間には、彼の前にもう1人男の子がいました。市太郎、と名付けられた男の子で、両親の最初の子供でした。

しかし市太郎は、生まれて半年ほどで亡くなってしまったため、渋沢篤二が「長男」となりました。篤二の名前は「栄一」の息子だから「ニ」がついているのだとは思いますが、もしかしたら「実は次男だから」というニュアンスもあるのでしょうかね。

母・千代の死

渋沢篤二は歌子、琴子についで3番目(市太郎、夭折した三女・伊登を含めると5番目)の子供、そして長男として神田裏神保町に生まれました。父の栄一がまだ大蔵官僚だったころに生まれていますね。物心ついたころには、すでに栄一は第一国立銀行などの事業家として活動していたようです。

篤二が9歳の時、母千代がコレラで没します。父は伊藤兼子と再婚しますが、篤二は継母の兼子には育てられず、すでに嫁いでいた姉の歌子のもとで育てられました。篤二と栄一の関係性には、もしかしたらこれらの出来事が影を落としているのかもしれませんね。

落ちこぼれの篤二

篤二に対して栄一は期待を寄せていたようで、栄一を慕って渋沢邸に寄宿していた学生たちと「龍門社」なる団体を結成させたりしています。伯父の尾高惇忠の指導の下、「龍門雑誌」などを発行していたそうです。

篤二はその後、学習院から熊本第五高等中学校に進学します。おそらく帝国大学への進学あたりを栄一は思い描いていたのではないでしょうか?

しかし、篤二は親の目が離れたこともあったのでしょうか、いわゆる「廓遊び」にはまってしまったようで……。最終的に「ワタクシダイシツサク。イサイユービン」とかいうとんでもない電報をよこすまでになってしまいます。

結局篤二は「病気」で退学し、その後1年ほど栄一の実家のある血洗島で謹慎させられました。

公家の橋本敦子と結婚

謹慎させたとはいえ、栄一からすれば篤二は大事な跡取りですから、最終的には呼び戻し、家庭教師などをつけて勉強をさせていました。

そして、1895年に篤二は橋本敦子と結婚します。橋本敦子は伯爵橋本実梁の娘です。

橋本家と言えば京の公家の名門です。14代将軍家茂の正室・皇女和宮も橋本家の血をひいている(母親が橋本家出身)ことからも、皇族ともつながりのある、相当な名門の女性であることが分かります。結婚当時敦子は15歳、篤二は23歳でした。

敦子との間には、祖父の後を継ぐことになる敬三を含めて3人の男の子が生まれました。またこの頃には、渋沢倉庫、東京毛織物会社の取締役として、事業家的な活動もしていました。篤二自身も、このころは比較的安定した精神状態だったようです。

しかし、篤二の「遊び」に対する関心がなくなったわけではありません。義太夫や馬など、趣味には傾倒したままでした。

篤二の廃嫡

篤二は福住町の渋沢栄一邸で妻子と暮らしていましたが、1906年ごろに福住町から三田綱町に転居します。親の目がなくなった篤二はまたも「遊び」に耽溺するようになり、とうとう妻子の暮らす家には帰らなくなってしまいました。彼は新橋の芸者・玉蝶と暮らすようになったのです。

1911年ごろになると、篤二と玉蝶の関係は新聞紙などに面白おかしく書きたてられるようになりました。渋沢一族からの非難もあったのでしょう、結局1913年、篤二は廃嫡され、渋沢家の跡継ぎは篤二の息子・敬三に決まりました。篤二は廃嫡と同時に渋沢倉庫の取締役も退任します。

廃嫡後の篤二は、むしろ水を得た魚のように生き生きと暮らしたようです。セッターなどの犬の飼育やら趣味に没頭しました。渋沢栄一が篤二を廃嫡としたのも、芸術家肌で実業家に向いていない息子を守りたかったのでは?という話もあるようですね。

渋沢一族とのかかわりはたえることはなかったようで、一度は退任した渋沢倉庫の取締役には再就任しています。

玉蝶と渋沢篤二

篤二を廃嫡に追いやった(かもしれない)玉蝶は新橋の芸者でした。この玉蝶という女性は新橋では有名な美女だったようで、実業家の根津嘉一郎や三井財閥の人間ともかかわりがあったようですね。いわばお金持ちを転がすのは大得意だった女性に、篤二はころりと参ってしまったようです。

玉蝶と篤二の関係は、なんと篤二の死まで続きます。篤二は1932年、偉大なる父の死の翌年に、玉蝶と20年間暮らした白金の家で61歳で死去しました。お金持ちとはいえ、後継ぎではない篤二との関係が20年続いていたことを考えると、案外玉蝶と篤二はベストパートナーだったのかもしれません。

その後の玉蝶の行方は分かりませんが、渋沢家から何らかの手当金は受けたのではないでしょうか?それか、だれか良い旦那を捕まえて悠々自適に暮らしたのかもしれません。

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  1. キョンチャン

    渋沢篤二さん、偉いじゃん。
    玉蝶さんと言う美女と20年も一緒に暮らしていけるなんてあっぱれ。
    篤二さんの役、誰がなるんだろう?!
    昔は妾も認められていたのよ。

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