阿部正弘の死因は何なのか?肝臓がん、過労死、暗殺説など

阿部正弘は25歳にして老中となり、その2年後には水野忠邦の後を継いで老中首座の座につきました。

日米和親条約を締結し鎖国を終わらせるなど、幕末の歴史において多大な貢献をした阿部正弘。しかし、彼は安政四年、39歳で急死してしまいます。彼の死後、堀田正睦が老中首座の座につきますが、その時代は長続きせず、大老・井伊直弼が登場します。

……阿部正弘の急死が、多くの人々の運命を変えたことが良く分かりますね。

そんな阿部正弘ですが、実は死因が判然としていないようです。肝臓がんではないか?という説もあれば、過労死したのだ、という説もあり、さらには暗殺された!という説まであるみたいですね。阿部正弘の死因の説について調べてみました。

阿部正弘の死

阿部正弘は老中在任中に39歳で江戸で亡くなりました。福山藩の藩医・伊澤伯軒が阿部正弘を治療したそうですが、力及ばず死去しました。(伊澤伯軒はそのため、福山藩奥医の座を追われますが、後に幕府の奥医になったそうです)

急死ではあったのでしょうが、おそらく何かの病で倒れて短期間寝込んで死去したのでしょうね。暗殺とかではなさそうですね。

水戸藩の徳川斉昭が阿部正弘の死の1カ月ほど前に、ある人に当てて書いた手紙によると「阿部正弘はやせ衰えていて、3カ月ほど前に見たときとはずいぶん様子が違った。まるで幽霊みたいだった。」とのことですから、倒れる前からかなり体調は悪くなっていた様子がうかがえます。

阿部正弘の死因を考えるうえで……阿部正弘は肥満で尋常でない汗かきだった

阿部正弘の死因はよく分かりませんが、阿部正弘の健康状態はあまり良くなかったのだろう、とうかがわせる逸話があります。

阿部正弘は肥満体で長時間正座をすることが大変だったが、人の話を聞くときは必ず正座をして聞いていた。あるとき、阿部正弘が立ち去った後に彼の座っていたところを確認すると、汗で畳が湿っていた。

正座をするのが苦しいほどの肥満、ということですからかなりぽっちゃりした体系ではあったのでしょうね。さらに畳にしみこむまで汗をかくというのはなかなかのような気がします。

阿部正弘はもともと病弱だったようだ

阿部正弘は老中在任中もたびたび病床に臥すことがあったようです。もともとあまり体は強くないようですね。

阿部正弘の死因①:肝臓がん(もしくは胃がん)説

阿部正弘はかなりのお酒好きだったと言われています。なんでも毎日二升以上お酒を飲んでいたのだとか。

幕政の難しさに加えて、外国とのやり取りもあって相当大変だったのでしょうね。もともとお酒好きだったのでしょうが、さらに飲むようになっていたようです。

それほどお酒を飲んでいたことから、阿部正弘は飲酒がもとで、肝臓がんもしくは胃がんになって死去したのでは?と言われています。

もしもがんだったとしたら、最初はあまり症状が出ません(肝臓は「沈黙の臓器」なんて言われていますし。)。阿部正弘はなんといっても30代ですから、症状が出たときにはもうかなりがんが進行していた状態だったことになるでしょう。また死去の直前にやせ衰えていた、というのもがんだとすると当てはまりますよね。

結果的に「急死」と言われるほどに急激に症状が出て死去することもありうるように思います。

阿部正弘の死因②:過労死説

阿部正弘の死因の1つに「過労死」という説があります。

江戸時代、老中はだいたい午前10時ごろに自宅を出て江戸城に向かい、15時くらいに家に帰る……という生活だったのですが、実は老中は、出勤前に別の仕事をしていることがあります。

その仕事は「対客」というもので、だいたい2日に1回ほどの割合で、江戸城にて大名たちと対話する機会を設けていたのだそうです。

その「対客」がある場合、なんと朝の5時には「対客」をはじめていたとのこと。当然夜明け前に起床して江戸城に向かっていたのでしょう。仕事が15時ごろにはおわると考えても、労働時間8時間を超えていますね。しかもお仕事が終わったところで、夜にはまた宴会などがある場合も……。睡眠時間がどこまで確保できていたのかは分かりませんよね。

ついでに言うなら、阿部正弘は幕末の老中で、幕府内では雄藩たちとのやり取り、さらには外国とのやり取りなど相当神経を使う立場にありましたから、肉体的にはもちろん、身体的なストレスもすごかったことでしょう。

過労死もさもありなん、という感じがしますね。

ちなみに阿部正弘は日米和親条約締結後に一度「その責任を負う」として老中を辞職しようとしたことがあったみたいですが、福山藩家中もそれに大賛成だったみたいです。傍目に見ていても相当忙しかったんでしょうね。

阿部正弘の死因③:暗殺説

若いのにかかわらず急死したことから、暗殺されたのでは?という説もあります。

阿部正弘は日米和親条約締結をするなどしていましたから、いわゆる攘夷派の人からは評判が悪かったのは事実でしょう。また、彼と渡り合った雄藩の人々や、大名たちの中にも、阿部正弘の存在を良く思わない人もいるでしょう。

実際、彼の死後大老の座についた井伊直弼は桜田門外の変で壮絶な最期を遂げていますからね。

ただ暗殺された、とするにはちょっと弱いような気もしますね。藩医が看病していることを考えると、暗殺されたというよりは何らかの病気で倒れたと考える方が自然なように思います。

阿部正弘の死因④:女遊びによる腎虚説

阿部正弘は多くの女性たちを虜にするほどの美男子だったと言われています。また愛妻家な一面もあったようで、前妻が死去した時には嘆いて和歌を残していたりもしています。

そんな彼には「女好きだった」という風説が残されています。

水戸藩の徳川斉昭によると、死の直前には、桜餅屋の娘の「おとよ」を非常に寵愛していたとのことです。「おとよ」は、阿部正弘が母のもとを訪れるときに見初めて、お客として通い詰めたはてに側室にしたのだと言われています。

さらに、吉原遊郭などにも出入りしていたといううわさもあるみたいです。

そのことから、女遊びに起因する「腎虚」で亡くなったという説も生まれたようです。

阿部正弘の死因⑤:糖尿病説

前述の肥満であった、という話から「糖尿病だったのでは?」という説もあります。お酒も好きで毎日2升は飲んでいたそうですから、何らかの生活習慣病的な疾患を抱えていた可能性は高そうです。

阿部正弘の死因について:まとめ

阿部正弘の死因にはいろいろな説があるようですが「肥満体」「酒好き」「激務」などの様々な要素が絡み合って、病気になったと考えるのが自然なように感じます。

死の1月ほど前には面影がないほどにやせ衰えていたとのことですから、急激に病状が悪化したでのしょうね。

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