天皇家から勘当されていたかも?「狂斎院」娟子内親王

女性史

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

最近いろいろなニュースを見ている中で、ふと「結婚を反対された」「駆け落ちした」内親王はいないのかな?と考えました。少し調べてみただけでも何人かそれらしき人が出てきたのですが、とりあえずその代表例?かなと思われる女性を紹介したいと思います。

その女性の名前は娟子内親王、父は天皇、母は内親王と、ほんとうにやんごとなき生まれの姫君です。そんな彼女ですが、駆け落ち同然に結婚したことから「狂斎院」などというあだ名をつけられてしまいました。娟子内親王とは果たしてどんな人物だったのでしょう。

娟子内親王の前半生

彼女が生まれたのは摂関政治に陰りが見えていた時代のことです。

父はその当時の皇太子、後の後朱雀天皇です。母はその正妻である禎子内親王です。

母の禎子内親王は父の従妹(禎子内親王の母妍子と、後朱雀天皇母の上東門院彰子が姉妹)で、三条天皇の皇女です。娟子内親王には同母姉の良子内親王、そして同母弟にはのちに後三条天皇となる尊仁親王がいました。

父後朱雀天皇が即位した後、娟子内親王は賀茂神社に奉仕する天皇家の巫女姫・斎院になります。この時娟子内親王は5歳でした。ちなみに同母姉の良子内親王も同じ日に伊勢神宮に奉仕する天皇家の巫女姫である斎宮になっています。

当時の慣習とはいえ、幼いながらに両親から離れて育つことになるのは少しかわいそうな気もしないわけではありませんね……。

二宮の御名は娟子 麗と読む

引用:『範国記』より

「娟子」というあまり現代の人には見慣れない名前は、斎院になった時につけられた名前のようですね。「うるわしこ」みたいな読み方をしていたのでは?と言われています。

娟子内親王は約8年ほど斎院の任にありましたが、父後朱雀天皇が崩御してしまったので、斎院の任務を退きました。(当時の斎院・斎宮は終身制ではなく、両親の死などがあると任務から離れるものでした。)時は寛徳二年(1045)、彼女は13歳になろうかという頃です。

その後、彼女は前斎院、内親王として優雅に暮らしていたのですが……。

前斎院・娟子内親王の恋

わさとのおとなのうつくしう、ささやかなるにておはします。御かたちとも、いとめてたくおはします

引用:『栄華物語』

娟子内親王は内親王という身分ゆえか、結婚相手は見つかりませんでしたが、とにかく美しい皇女だったようですね。母方の祖母の妍子(三条天皇中宮、藤原道長次女)は藤原道長の6人の娘達の中でも一番の美人だったと言われていますから、その祖母の血筋ゆえでしょうか。

そんな美しい娟子内親王はいつの日か恋をしました。相手は3歳年下の源俊房です。

源俊房は、藤原道長の孫(俊房の母は藤原道長の五女・尊子)ですから、母の従弟にあたる男性です。

俊房の伯母は藤原頼通の正室にあたり、また母は道長の娘ですから、源氏(村上源氏)ながらにかなり摂関家と近い人物でもありました。そのため、20代前半の若者ながら、従二位参議という高位にある公卿でもありました。『後拾遺和歌集』に和歌が選ばれるなど、家柄が良いだけでなく歌の才能もあったのでしょう。

今鏡によると、ある人の扇に一字ずつお互いに文字を書き入れていって、和歌を作りあげる……といったことから心を通わせていったようです。さすが平安時代、風流ですね!

しかし、平安中期以後、天皇家の皇女たちは結婚するとしても相手は天皇、もしくは摂関家の子息くらいしかありませんでした。さらに結婚する際には天皇の許し(勅許)が必要です。

また娟子の伯母、三条天皇第一皇女である当子内親王は伊勢斎宮を退いた後、摂関家の藤原道雅と恋をしましたが、その恋は叶うことなく引き裂かれ、尼となった後に早逝しています。

この頃娟子内親王は26歳、引き裂かれるくらいならいっそ、という思いもあったのでしょうか?

天喜五年などにやありけむ、長月のころ、いづこともなくうせ給ひにければ、宮の内の人、いかにすべしともなくて、明し暮しけるほどに、三条わたりなる所に住み給ふなりけり。
はじめは、人の扇に一文字を男の書き給へりけるを、女の書き添へさせ給へりければ、男また見て、一つ添へ給ふに、互に添へ給ひけるほどに、歌一つに書き果て給ひけるより、心通ひて、「夢かうつつか」なる事も出できて、心や合はせ給へりけむ、負ひ出だしたてまつりて、やがてさて住み給ひけり。
「男咎あるべし」
なんど聞えけれど、人柄の品も、身の才などもおはして、世も許し聞ゆばかりなりけるにや、もろともに心を合はせ給へればにやありけむ、さてこそ住み給ひけれ。

引用:『今鏡』より

天喜5年(1057年)、娟子内親王は源俊房との密通の果てに、遂に俊房の屋敷へ駆け落ちしてしまいました。この結婚に一番激怒していたのは、摂関家との関係が良好でなかった同母弟の東宮・尊仁親王だったそうです。

とはいっても、源俊房自身は皇女(内親王)の婿とするには特に不足のない家柄の出身であったためか、源俊房は特に処罰を受けることもありませんでした。娟子内親王も特に問題なく、源俊房の正室になりました。

しかし内親王という高貴な身分でありながら駆け落ちというセンセーショナルなスキャンダルを引き起こしたためでしょうか、彼女は「狂斎院」というあだ名で呼ばれるようになってしまいました。

娟子内親王の駆け落ち後

源俊房と娟子内親王の間には子供は生まれませんでしたが、内親王という身分もあり、娟子内親王は源俊房正室として敬われました。夫の俊房も順調に昇進を重ね、従一位左大臣という高位にまで上り詰めていきます。ただ源俊房は、後三条天皇の皇子・白河天皇(白河院)とは関係が悪かったりはしましたが……。

娟子内親王は弟後三条天皇の孫、堀河天皇の時代にあたる康和五年(1103)に亡くなりました。その後、夫の俊房は白河院との対立の末失脚してしまうのですが、彼女はそれを見ることはありませんでした。

ちなみに娟子内親王には子供は生まれませんでしたが、源俊房は側室との間に何人か子供を儲けていました。

俊房の娘の1人が、藤原長実という白河院の側近に嫁いで、娘を一人産みました。

彼女の名前は藤原得子、「玉藻の前」のモデルとも呼ばれる美女で、鳥羽院の寵愛を独占し国母にまで上り詰め、後に「美福門院」と呼ばれるようになります。美福門院は平安末期の一時代に政界を牛耳り、白河院の落胤ともうわさされる崇徳天皇を苦しめるわけですが……それはまた別の話ですね。気になるからはこちらからどうぞ。

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