督姫(ふう、おふう、富子) 政に翻弄された家康の次女

中世史(日本史)

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家康の長女・亀姫は、身内の相次ぐ死などに翻弄されつつも、結婚生活そのものは穏やかでした。

しかし家康の次女・督姫、そして三女・振姫は(おそらく)意に添わぬ再婚を余儀なくされるなど、波乱の結婚生活を送っています。

今回紹介したいのは、家康の次女・督姫です。

大河ドラマ『どうする家康』では、側室・お葉との間の娘・おふうとしてすでに出演している彼女、大河ドラマの中ではまだ赤子だった彼女は、成長したのち、政治の動きに翻弄され、波乱の結婚生活を送ることとなります。

戦、そして政治に翻弄された家康の次女・督姫の生涯はどのようなものだったのでしょうか。

西郡局 なんとな~く影の薄い督姫の母
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督姫の誕生

督姫は、徳川家康の次女として生まれました。

母は西郡局、家康の側室の一人で、今川氏家臣鵜殿氏の流れをくむ女性でした。

生年については諸説あり、永禄八年(1565)、もしくは天正三年(1575)ではないか?と言われているみたいですね。

慶長十六年(1611)に末子・池田輝興を産んでいることを考えるならば、自然なのは後者(前者の永禄八年生まれだと47歳での出産ということになるので……)のように思われますね。

ただ『どうする家康』では、永禄八年(1565)生まれ説を採用しているみたいです。一応従来の学説だと、永禄八年(1565)生まれが有力だったようです。

とはいえど、この問題はなかなか答えが出ないので、督姫の生年の問題は置いときましょう。

督姫の母・西郡局は以後家康の子を産むことはなかったため、彼女には同母の兄弟姉妹はいません。

督姫は家康の次女として、いずれ長姉・亀姫のように、政略結婚の駒となる運命が待ち構えていました。

もしも信長が生きていれば、いずれは織田・徳川家の同盟者のもとに嫁ぐことになったのかもしれません。

しかし、天正十年(1582)、織田信長は本能寺にて横死することとなります。

そして、督姫の結婚は天正十一年(1583)、父の同盟者であった信長の死後に決まることとなります。

督姫、北条氏直と結婚する

信長の死後、東海の有力者となっていた家康は、次第に北条氏と国境を接し争うことが増えていました。

北条家は五代に渡る関東の雄でしたが、中央(織田・豊臣)と繋がっていた家康も負けてはいませんでした。

北条家、そして徳川家は直接対決を避けます。

天正十一年(1583)、北条家との和議の証として、9歳(あるいは19歳)であった督姫は北条家の後継者・氏直に嫁ぎます。

氏直は北条家の最大領土を達成した北条氏政と、武田信玄長女・黄梅院との間に生まれ、天正十一年当時で22歳になる、血筋正しい御曹司でした。

督姫は今川家家臣・鵜殿氏の血をひき、一説には祖母に今川義元の妹(今川氏親の娘)を持つとも言いますが、氏直もまた父方の祖母に今川義元の姉妹をもっていますので、遠縁同士(はとこ)の結婚とも言われています。

政略で始まった結婚でしたが、督姫と氏直の間には2人の娘も生まれました。

氏直は他に側室などを迎えた形跡もないため、それなりに仲睦まじい夫婦ではあったのでしょう。

督姫と小田原征伐

娘二人と、夫との穏やかな生活は、小田原征伐によって終わりを告げることとなります。

天下は豊臣秀吉のもとに一つにまとまろうとしている中、北条家は秀吉との関係悪化により、攻め入れられることとなるのです。

氏直はなんとか領地内の城などを修繕し、豊臣方との決戦の準備を整えましたが、あまりに豊臣の軍勢は多すぎました。

北条家の領土内の城たちは豊臣の軍勢によって攻められ陥落し、北条家は小田原城にて籠城戦を強いられます。

その城を取り囲む豊臣軍は半ば物見遊山のようなありさまで、秀吉は側室・淀の方を呼び寄せるなど、戦いのような雰囲気も薄かったといいます。

3月に渡る籠城の末、氏直は降伏します。氏直の父で事実上の当主であった北条氏政は切腹させられますが、氏直は家康の婿であるということもあり、なんとか助命されます。

しかし、北条家代々の関東の地を奪われ、高野山にて蟄居生活を送らされたのはきっと屈辱だったでしょう。

とはいえど、翌天正十九年(1591)には、家康の仲立ちなどもあり、氏直の蟄居生活は解かれ、赦免となり大坂に居住、その後1万石の大名となります。

小田原征伐後、小田原でひそかに生活を送っていた督姫は、夫を慕っていたのでしょうか、夫が赦免され、大名に復帰すると、大坂に上洛します。

しかし再会からわずか3カ月ばかり後に、氏直は急死します。

一説には疱瘡による死だったとも。高野山での蟄居生活は、彼の体力をじわじわと奪っていたのかもしれません。

愛した夫を失った督姫は娘たちとともに、父のもとに身を寄せました。

しかしなおも不幸は続き、文禄二年(1593年)には氏直との間の長女が早世してしまいます。悲しみはいかばかりだったでしょう。

督姫、池田輝政と再婚する

文禄三年輝政太閤の命により、東照宮の御息女督姫君をむかへまいらす。

引用:『寛政重修諸家譜』

氏直との間に儲けた次女・万姫とともに穏やかに生活を送っていたと思われる督姫に、あらたな縁談が持ち上がります。

家康の次女として、彼女は再び政略結婚に身を投じることとなるのです。

新たな結婚相手は池田輝政、くしくも小牧・長久手の戦いにおいて、父家康と戦って亡くなった池田恒興の後継者でした。

ちなみに、輝政の兄も、小牧・長久手の戦いで戦死していますから、結構な因縁の相手とも言えますね。

この結婚は、豊臣秀吉の仲立ちで成立したものだったといいます。

ちなみに秀吉は、当初側室淀の方の妹であるお江(後の徳川秀忠の正室)を嫁がせようとしていたそうですが、家康が輝政に娘を嫁がせたい!といったため、督姫との縁談を仲立ちしたのだとか。

この結婚の前に輝政は中川清秀の娘・糸と結婚し、長男利隆を儲けていましたが、この正室と離縁してまでの再婚でした。(一説には糸は産後の肥立ちが悪く、病気となったため実家に帰ったとも言いますが……)

文禄三(1594)、督姫は娘・万姫を連れて輝政のもとに輿入れします。万姫は輝政の養女となり、さらには輝政の嫡男・利隆の許嫁となりました。

再婚同士の輝政と督姫ですが、それなりに仲は良好だったと言われています。

輝政には複数人の側室もいましたが、督姫との間に、二男五女、合計7人もの子を儲けています。

もっとも、子供たちの多くは江戸幕府創設後の出生ですから、将軍娘・将軍姉妹である督姫を粗略に扱うなんてできなかった、という側面もあるでしょうが……。

督姫の娘のうち、長女は異母弟の秀忠の養女として京極家に嫁ぎ、次女は父・家康の養女として伊達家に嫁ぎました。

また、彼女の息子の一人・忠雄は岡山藩主となった後、その血筋は鳥取藩主池田家として続くこととなります。

輝政は督姫との縁もあり、江戸時代になると外様大名でありながらも大いに出世します。

輝政の子孫は鳥取藩主池田家、岡山藩主池田家といった有力外様大名を輩出することとなります。

江戸幕府創設後、督姫は将軍の娘、そして将軍の姉妹として権勢を誇りますが、そんな彼女の栄華のなかにも悲しみはありました。

輝政の長男(督姫の継子)・利隆の婚約者となっていた北条氏直との間の次女・万姫が慶長七年(1602)に早逝するのです。

万姫は10代後半、もう少し長生きしていれば、利隆に嫁いでいたことでしょう。

督姫は、のちに母・西郡局(慶長十一年に死去)の墓の隣に、この娘の墓を建てています。

嫁ぐことなく亡くなったわが子が少しでも寂しくないように、祖母とともに眠らせることにしたのかもしれませんね。

督姫の死~継子を毒殺したのか?~

慶長十八年(1613)に夫・輝政を見送った後、督姫は池田家家中においてその辣腕を振るいました。

息子たちの相続などの処理や、大坂の陣に出陣する息子たちと手紙をやり取りするなど、彼女は気丈にふるまいます。

しかし、夫の死から2年後、慶長二十年(1615)に、父家康に先立って彼女は亡くなりました。

その死因は疱瘡といわれており、奇しくも20年以上も前に死別した前夫・氏直と同じ病だったようです。

さて、彼女の死には実はきな臭い噂もあったりします。それが「毒饅頭」のうわさです。

慶長二十年(1615)の二月、督姫の死からひと月もたたぬうちに督姫の息子・忠継が10代の若さで亡くなります。そして翌年、督姫の継子にあたる池田利隆も急死しました。

この3人の死に、「毒饅頭」がかかわっているというのです。その話はこのようなものです。

督姫は継子の利隆ではなく、自分の産んだ忠継を夫の後継者として姫路藩主にしようと考えていた。利隆が自身のもとを訪れた際に、督姫は毒饅頭を出す。

そのことを知った侍女が、利隆を助けるために、これは毒饅頭だ、とひそかに利隆に告げる。利隆は毒饅頭に手を付けなかった。

そしてこの場にもう一人、毒饅頭の存在を知っているものがいた。それが利隆の異母弟で、督姫の息子である忠継だった。

兄を慕っていた忠継は兄を助けるために、毒饅頭を平らげ、そのまま亡くなってしまう。忠継の真意に気づいた督姫もまた、毒饅頭をあおって死んだ……と。

とはいえど、これはさすがに嘘ですね。まず死んだ順番からしておかしい……。

督姫と利隆は気安い仲ではなかったかもしれませんが、利隆は将軍秀忠の養女、つまり督姫の義理の姪を妻に迎えるなどしており、けっして徳川家との関係は悪くなかったわけです。

下手に利隆を害すれば、秀忠の不興を買う可能性もあったわけですから、督姫が利隆を大っぴらに害したとは到底考えづらいです。

おそらくわが子と変わらない時期に亡くなってしまったことで、このような話が生まれてしまったのでしょう。

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