そして小栗旬さんは、北条義時役だとか。
そして、小栗旬さん演じる北条義時には、何人か妻がいました。
彼女たちについて調べてみました。
離縁しないといったのに……正室:姫の前
北条義時の最初の正室は、比企朝宗の娘である「姫の前」です。
源頼朝の侍女であった女性で、吾妻鏡にも「容顔太だ美麗なり」と書かれるほどの美女で、頼朝も大層気に入っていたそうです。
(頼朝は割と北条政子の目を盗んで浮気しているイメージがありますが、姫の前はその辺は大丈夫だったんでしょうか。)
義時はそんな美女の彼女に一目ぼれし、何度も文を送りましたが、一向に返事はなく。
最終的に頼朝が、「絶対に離縁いたしません」という起請文を義時に書かせて、二人の仲を仲立ちしました。
二人の間には、次男の朝時、三男の重時、長女の竹殿が生まれます。
しかし……
姫の前の叔父・比企能員や、能員の娘で鎌倉幕府二代将軍の頼家の妻・若狭局らが、北条時政らによって、1203年に攻め滅ぼされてしまいます。
姫の前の父、朝宗がどうなったのかはわかりませんが、これ以後朝宗の記録はありませんから、何らかのことが起こったのは確かでしょう。
そして、姫の前の運命も変わりました。
姫の前に関する記録に、このようなものがあります。
「源具親の子(源輔通)は北条朝時の同母弟」
源輔通は、1204年生まれです。
おそらく、姫の前は比企一族が誅殺された後、義時と別れて京に上り、公家の源具親と再婚したのだと思われます。
二度目の結婚生活がどんなものだったのかは分かりませんが、1207年、二度目の結婚生活から3年ほどで、姫の前は亡くなったようです。
お騒がせな継室:伊賀の方
伊賀守で、有力御家人である伊賀朝光の娘です。
いつごろ継室になったのかは分かりませんが、1205年に北条政村を産んでいるので、姫の前との離別(1203年)からさほどたたないうちに再婚したものと思われます。
こどもは3男1女。彼女所生の中での長男(実際は5男)政村は7代目の執権となるなど、北条一族の宿老として重きをなしました。
また義時は政村を非常にかわいがっていたようですので、その母で継室である伊賀の方もおそらく愛されていたのではないでしょうか。
しかし義時の死後、彼女は娘婿を将軍に、継子である泰時ではなく実子政村を執権にしようとした……として失脚、伊豆へ流罪となります。
そのわずか4カ月後には危篤状態に陥り、そのまま亡くなったようです。
ちなみに彼女には義時毒殺疑惑もありますが……実際はどうだったのでしょうね。
謎多き北条泰時の母 側室:阿波局
承久の乱後に備前国守護に任ぜられた加地信実(1176~1243)の娘では?とする説がありますが、北条泰時は1183年生まれなので、どう考えても違いますね。
もしくは、北條寺の北条義時夫妻の墓には、義時妻として「佐伯氏」なる女性がいるので、この方がもしかしたら泰時の母かもしれません。
そもそも「阿波局」という名前も本当にそうだったのかよくわからない感じです。
泰時母は、「官女阿波局」と系譜にあるので、おそらく鎌倉幕府に仕える女房だったのでは?と言われていますが。
北条泰時が側室の所生であるということは、正室の子である異母弟・朝時との対立を生みました。
どちらが父の後継にふさわしいか、ということですね。
ただ泰時はそれを勝ち抜き、自らの子孫を北条家の嫡流、「北条得宗家」として確立させました。
側室:伊佐朝政の娘
四男・北条有時の母親に当たる女性です。この女性の所生は有時一人しか確認できていません。
(生母不明の義時の子たちの母親である可能性はありますが。)
1200年(正治二年)に北条有時を産んだことがわかるだけです。
そこでは「江間殿妾」とあることから、側室であったことは確かです。
(この時期は姫の前が正室でした。)
北条義時の妻で、存在が明らかになっているのは上記4名ですが、他にも名前の知られていない側室がいてもおかしくなさそうです。
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