愛された薄命の少女 郁芳門院 媞子内親王 その生涯について

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

郁芳門院 媞子 堀川准母 白河第一女 母右大臣顕房公第一女中宮藤賢子 京極関白養女 承保三八十六 為内親王年一 承暦二三十六准三宮三 同八二為伊勢斎宮 応徳元九九退下 年九依母后御事也 寛治五正二十三為中宮 年十六当今養母同母義 同七正十九丁酉院号十八 嘉保三八七御事

『女院小伝』より

まさしく流星のごとくかけ去っていった姫君だったのでしょう。

彼女は白河天皇の第1皇女として生まれました。母は中宮藤原賢子(摂関家の藤原師実の養女)です。

彼女の母は28歳の若さで亡くなっているのですが、

白河のみかどは位の御ときなれば、廢朝とて、三日はひの御ざのみすもおろされ、よのまつりごともなく、なげかせ給ふ事、からくにの李夫人楊貴妃などのたぐひになんきこえ侍りし。御なげきのあまりに、おほくの御堂御仏をぞつくりてとぶらひたてまつらせ給ひし。

『今鏡』より

と、かなり白河天皇に愛されていた后だったようです。
そしてその最愛の后との間に生まれた郁芳門院も、非常に愛されていました。

さてまだ母賢子が存命の頃に、3歳で媞子内親王は伊勢斎宮に選ばれました。
伊勢斎宮とは、伊勢神宮に奉仕する皇族女性(おもに皇女)であり、大変に高貴な身分でありました。
2年ほど準備して、伊勢に下った彼女は幼いながらに神に奉仕したことでしょう。
しかし、そんな中で賢子が亡くなります。そこで媞子内親王は斎宮の座から退き、京へ帰りました。
媞子内親王はおそらく母の記憶をほとんど持っていなかったのではないでしょうか。そう言ったところももしかしたら父の哀憫を誘ったのかももしれません。

父の愛に包まれて媞子内親王はすくすくと育ちました。

身体美麗 風容甚盛 性本寛仁 接心好施 因之上皇殊他子也 天下威權只在此人 

『中右記』 より

美貌であったようですが、これは母から受け継いだものだったのでしょうか。またおおらかな性格をしていたようです。

さて父の愛はとどまることを知りません。
白河天皇は院政を開始しましたが、時の天皇は媞子内親王の同母弟、堀河天皇でした。
白河天皇は媞子内親王を堀河天皇の「皇后」にしたのです!!
しかし二人は同母の姉弟(異母ならもしかしたら本当に結婚できていたかも)、ですので媞子内親王は「”妻ではない””(堀河天皇の)母に准ずる”皇后」という扱いでした。
「皇后」という称号だけを持っているという状態です。
「ええ……」と宮中もドン引きでしたが、この制度が、後々院政期にしばしば見られる「准母立后」という制度の始まりとなります。無茶苦茶なことでも一度やってしまえば前例になってしまうんですよね。

(これについては父白河天皇が白河-堀河という皇統のつながりをより強固に示したかったとする、極めて政治的な判断だとする説もあります。)※1
そして媞子内親王は女院号までも宣下され、郁芳門院と呼ばれるようになりました。

しかし栄華の日々は儚くも終わってしまいます。

嘉保3年の夏に、京で爆発的に田楽が流行し、あちらこちらで民衆が田楽を踊っていました。(田楽は料理の田楽ではなく、単純な音楽とともに踊る単純かつ緩慢な踊りのことです。)
上流階級もだんだん田楽が気になるようになってきました。そして媞子内親王も田楽が好きだったのです。白河天皇はそれを見逃しません。媞子内親王のために院御所などで貴族たちによる田楽の会などを開きました。

媞子内親王もそれを非常に楽しみました。その熱狂の中―突如彼女は発病、2日余りで絶命しました。あまりにも急な死でした。

彼女が亡くなった後、

院ののちは、その御むすめの郁芳門院かくれさせ給へりしこそ、かぎりなくなげかせ給ひて、御ぐしもおろさせ給ひしぞかし。四十五六の程にや、おはしましけん。

『今鏡』より

と、出家をするほどに悲しんだ白河天皇ですが、何やかんやでまだまだ男としては現役だったようで。
この次の女院の人生に大きくかかわっていくわけですが。このお話は次の機会に。

※1……栗山圭子 「准母立后制にみる中世前期の王家」(『日本史研究』465 2001年)を参照

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