「明智光秀の母」は果たして殺されたのか?

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

明智光秀はなぜ本能寺の変を起こしたのか?

日本史上に残る最大級の謎ではないでしょうか。

そしてその理由は多く語られていますが、その中の一つに、こんなものがあります。

明智光秀は丹波を平定する際に、自分の母親を、丹波の戦国大名波多野氏に、
人質として差し出した。
しかし信長の命により波多野氏は滅ぼされ、光秀の母もそのときに命を落とした。
そのために光秀は信長を恨み、本能寺の変へ至った。

という話です。

とはいえど実際のところ、どうなのでしょうか。考察してみました。

こちらは光秀子孫の話

人質が殺されることってあるの?

まず人質って殺されるの?生かした方が利用しがいがあるんじゃ……とも思いますが。
結構あっさりと殺されますね。

・奥平信昌(貞昌)は武田氏から徳川氏へと寝返ったが、
 その際に武田氏に人質として送っていた妻おふう・弟千丸が武田氏によって処刑された
・毛利元就長女(名前不詳)は、元就兄嫁の実家高橋氏に人質として出されていたが、
元就が高橋氏を滅ぼしたときに高橋氏によって殺害された
・松永久秀の孫二人は、祖父が信長に謀反を起こしたときに、信長によって処刑された

主だった例を挙げてみるとこんなところでしょうか。
前者二つは一族滅亡の危機の時になりふり構わず……といった感じで、後者は権力者の見せしめの要素が強いかと思います。

光秀母は波多野氏に人質→波多野氏滅亡時殺害なので前者のパターンですね。

ここでまた考えることが一つ。

そもそも光秀母は人質だったのか?

まず明智光秀は母親を人質に送る必要があったのでしょうか?
明智光秀は基本的に丹波側の大名相手に融和政策はとらずに、どちらかというと各城を攻め落としてじわじわと平定する、といったやり方を取っています。
波多野氏(当主波多野秀治)は、そもそも最初のうちは明智光秀に与していながら裏切りましたから、そのような信用できない相手に人質を送るでしょうか。
仮に人質を送ったとしても、それは殺されることもしっかりと考えて、覚悟の上で人質を選ぶと思います。ここで母親を送ったとしても、母がそこで死ぬことがありうることも、しっかりと頭に入れていたと思います。

また、明智光秀の長女はまた荒木村重の息子に嫁いでいたといわれていますが、荒木村重は後に信長に対し謀反を起こし、その結果、荒木村重の一族は(村重本人や生き延びた人物もいますが)ことごとく処刑されました。
荒木氏も、波多野氏同様一族滅亡となったわけですが、その中で人質のような立場であった光秀娘は、しかし殺されることなく光秀の元に戻りました。

これらの出来事から考えると、

・信用できない、それどころか積極的に攻め滅ぼそうとしている波多野氏に人質を送るだろうか?

・もしも送ったとしても、それはその人の死も覚悟の上だったのではないか?


・明智光秀は、人質を出したとしてもそうそう見殺しにするとは(信長の命令であっても)思えない

という結論になりました。

ですので、本能寺の変=光秀の母の敵討ち 説は成り立たない、と個人的には思います。

とはいえど歴史の真相は闇の中。いつかしっくりとくる、本能寺の変の原因がわかるときが来るのでしょうか。そのときが来たら、と考えるとドキドキしますね。

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