どうする家康

中世史(日本史)

家康側室にして秀忠母・お愛の方の実家の家族構成と前の夫

家康の側室であり、後の二代将軍秀忠の母となったお愛の方(於愛、西郷局)は、家康と結ばれる前に別の人と結婚していた女性でした。 彼女は夫を亡くした後、家康のそば近くに仕えるようになり、側室となって息子たちを産んだわけですが……。 そんなお愛の...
中世史(日本史)

穴山信君(穴山梅雪)の妻と子と子孫たち

甲斐武田家の滅亡には様々な要因がありましたが、その一つが家臣の裏切りでしょう。 武田二十四将の一人であった小山田信茂、信玄の三女・真理姫の夫であった木曾義昌らの裏切り……そして、同じく信玄の次女の娘婿であった穴山信君(梅雪)の裏切りもまた、...
中世史(日本史)

鳥居強右衛門の妻と子と子孫たち

長篠の戦い、と聞くと、騎馬対鉄砲、三段打ちなどのキーワードを思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。 実際のところ三段打ちがあったかは不明瞭だったりします。 が、いずれにせよ武田最強の騎馬隊を鉄砲軍団によって打ち破った長篠の戦いは、武田家...
中世史(日本史)

秀吉をフった女たち~太閤を拒絶した女たち~

織田信長ら戦国大名たちとの交流で知られる宣教師のルイス・フロイスによると「300人もの若い女性を城に囲っていた」とも言われるほど、女性好きだった豊臣秀吉。 実際に伝わる側室の数は10数人ほどと、実は徳川家康よりは少ない程の数なのですが、実際...
中世史(日本史)

大賀弥四郎(大岡弥四郎)の妻子と一族たち

天正三年(1575)、武田氏と内通したとして、岡崎城下の町奉行を務めていた武士・大賀弥四郎(大岡弥四郎)が鋸引きという酷刑にて亡くなりました。 彼の死からおよそ4年後、彼の主君でもあった徳川信康(松平信康)は父によって自害を命じられ、死に追...
中世史(日本史)

築山殿(瀬名姫)は武田の間者と密通(不倫)したのか?

大河ドラマ『どうする家康』では、瀬名姫と家康は別居こそしていますが、夫婦としてお互いを尊重し、愛し合っている様子が見受けられます。 とはいえど、浜松と岡崎、別居状態にあった二人が果たして本当に最後まで愛し合っていたのか?というのはかなり不透...
中世史(日本史)

振姫 会津藩を牛耳った家康の三女

家康には5人の娘がいますが、そのうち2人(4女・5女)は嫁ぐことなく幼くして亡くなっています。 家康の成長した3人の娘たちはいずれも政略結婚の駒となり、家康と有力大名家を結び付ける役目を果たしました。 今回紹介するのは、家康の三女・振姫です...
中世史(日本史)

督姫(ふう、おふう、富子) 政に翻弄された家康の次女

家康の長女・亀姫は、身内の相次ぐ死などに翻弄されつつも、結婚生活そのものは穏やかでした。 しかし家康の次女・督姫、そして三女・振姫は(おそらく)意に添わぬ再婚を余儀なくされるなど、波乱の結婚生活を送っています。 今回紹介したいのは、家康の次...
中世史(日本史)

亀姫 強くあらねばならなかった家康の長女

大河ドラマ『どうする家康』では「母に似て愛らしく天真らんまん」「素直でたおやか」な人物として描かれている家康の長女・亀姫。 ただ伝承に残る彼女はなかなか苛烈な女性であったようです。 とはいえど、実父によって母、そして実兄を死に追いやられたと...
中世史(日本史)

本多忠真の妻と子と子孫たち

まだ赤ん坊の時の父親を亡くした徳川四天王の一人・本多忠勝は、叔父の本多忠真の庇護下で本多家の当主として成長します。 甥の忠勝を優しくも厳しく見守った忠真ですが、三方ヶ原にてこの叔父は徳川軍の殿を務め、壮絶な討ち死にを遂げることとなります。 ...