子孫

古代史(日本史)

敦康親王の妻と娘

一条天皇と皇后・定子の間に生まれた第一皇子・敦康親王。 天皇の正妻腹の第一皇子という立場でありながら、時の権力者・道長の孫である異母弟たちが帝位にのぼったため、彼自身は結局高御座に座ることなく、若くしてその生涯を終えました。 そんな敦康...
中世史(日本史)

羽柴(豊臣)秀長の子供(実子)と子孫たち

豊臣秀吉の弟として、秀吉の天下取りのサポートを果たした羽柴(豊臣)秀長。 彼にはおそらく3人の実子がいましたが、秀長の子供たちはそれぞれどのような人物だったのでしょうか。 また兄・秀吉の血は孫娘・天秀尼が未婚のまま死去したことで途絶えま...
中世史(日本史)

平岩親吉の妻(正室・側室)と子と子孫たち

大河ドラマ『どうする家康』で石川数正らと並んで家康股肱の臣として描かれているのが平岩親吉です。 家康と同年の生まれであることから、家康の小姓となって今川家への人質時代にも付き従うなど、彼は家康幼少期から自身が亡くなるまで、家康に忠実に仕え...
中世史(日本史)

家康四男・松平忠吉の妻(正室・側室)と子供・子孫

江戸幕府二代目将軍・徳川秀忠には一人だけ同母の弟がいました。 彼の名前は松平忠吉、家康と側室・西郷局ことお愛の方との間に、家康の四男・福松丸として生まれた秀忠の同母弟は、しかし28歳という若さで早世してしまいます。 もしも長生きしていた...
中世史(日本史)

旭(朝日)姫 秀吉の異父妹にして家康の継室の一生

徳川家康は息子・信康とともに正室・築山殿(瀬名姫)を失った後、しばらく再婚しませんでした。 この時彼のそばには三河守護代の家柄の側室・西郷局、また武田氏ゆかりの下山殿など、それなりの家柄の側室らがおり、彼女たちとの間に幾人も子が生まれてい...
中世史(日本史)

柴田勝家の養子・実子・子孫たち

一時は秀吉と並び立ち織田家旧臣の中で権力を持っていたこともある柴田勝家。 主君・信長の妹であるお市の方の再婚相手にもなるなどしましたが、結局本能寺の変から一年たらずのうちに秀吉に追い詰められ、妻・お市の方ともども自害して果てることとなりま...
中世史(日本史)

穴山信君(穴山梅雪)の妻と子と子孫たち

甲斐武田家の滅亡には様々な要因がありましたが、その一つが家臣の裏切りでしょう。 武田二十四将の一人であった小山田信茂、信玄の三女・真理姫の夫であった木曾義昌らの裏切り……そして、同じく信玄の次女の娘婿であった穴山信君(梅雪)の裏切りもまた...
中世史(日本史)

鳥居強右衛門の妻と子と子孫たち

長篠の戦い、と聞くと、騎馬対鉄砲、三段打ちなどのキーワードを思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。 実際のところ三段打ちがあったかは不明瞭だったりします。 が、いずれにせよ武田最強の騎馬隊を鉄砲軍団によって打ち破った長篠の戦いは、武...
中世史(日本史)

大賀弥四郎(大岡弥四郎)の妻子と一族たち

天正三年(1575)、武田氏と内通したとして、岡崎城下の町奉行を務めていた武士・大賀弥四郎(大岡弥四郎)が鋸引きという酷刑にて亡くなりました。 彼の死からおよそ4年後、彼の主君でもあった徳川信康(松平信康)は父によって自害を命じられ、死に...
中世史(日本史)

本多忠真の妻と子と子孫たち

まだ赤ん坊の時の父親を亡くした徳川四天王の一人・本多忠勝は、叔父の本多忠真の庇護下で本多家の当主として成長します。 甥の忠勝を優しくも厳しく見守った忠真ですが、三方ヶ原にてこの叔父は徳川軍の殿を務め、壮絶な討ち死にを遂げることとなります。...