一時は秀吉と並び立ち織田家旧臣の中で権力を持っていたこともある柴田勝家。
主君・信長の妹であるお市の方の再婚相手にもなるなどしましたが、結局本能寺の変から一年たらずのうちに秀吉に追い詰められ、妻・お市の方ともども自害して果てることとなりました。
そんな柴田勝家、亡くなったときには60代。当然ながら子供とかもいたのでは?と思われるのですが……。
この記事では、柴田勝家の養子・実子(と考えられる人たち)・子孫たちについて調べてみました。
柴田勝家の養子たち
柴田勝家には実は実子がいたと言う記録が少なく、彼の子供として名前が出てくる人の多くは「勝家の養子」です。
勝家のライバル・秀吉も老年になるまで成長した実子はいなかったようですから、同じように柴田勝家もなかなか子に恵まれていなかったのかもしれません。
ここでは、柴田勝家の養子たちを見ていきましょう。
柴田勝家の養子①:柴田権六(柴田権六郎勝俊、幼名:於國丸)
『寛政重修諸家譜』において柴田勝家の養子として名前があがっています。
十六歳にして京都にをいて自殺す
引用:『寛政重修諸家譜』
彼は若くして自害したようです。
一説には天正十一年に、父・勝家の死に殉じたとも、自害ではなく豊臣方の手にかかって殺されたともいいます。
柴田勝家の養子②:柴田勝政(三左衛門)
三左衛門 実は佐久間九衛門盛次が三男、勝家が養子となる。天正十一年勝家が先陣にすゝみ、近江国志津が嶽にをいて討死す。
引用:『寛政重修諸家譜』
柴田勝家の養子の一人・勝政は勝家の姉妹が佐久間盛次に嫁いで産んだ、勝家の甥でした。
実父の佐久間盛次は永禄十一年(1568)に亡くなっていますから、若くして父を失った彼を、勝家は庇護していたのかもしれません。
彼は養父・勝家のもとで越前国勝山城主となります。
彼もまた養父・勝家と秀吉の争いに身を投じ、賤ケ岳の戦いのさなか、27歳という若さで亡くなりました。
近江国の武士・日根野高吉の娘との間に儲けた息子・権六郎勝重は舅の日根野高吉の手元で育てられ、柴田家の家督を受け継ぎました。
子孫は2000石ほどの大身旗本となっています。
柴田勝家の養子③:柴田勝豊
勝豊、養子、或勝令、実家不詳、室末森之方、或於蝶殿、伊賀守、初権六、柴田領近江長浜城、及越前坂井郡丸岡城主、領八萬石、
『柴田勝家始末記』
勝家の養子の一人。勝家の姉妹の息子の一人(甥)で、前述の柴田勝政からみると従兄弟になりますね。
実父は不明ですが、おそらく勝家の家臣のだれかでは?と言われているようです。
越前丸岡城の城主でしたが、勝家との仲は良くなかったようで、後に秀吉のもとに出奔しています。(もともと勝豊は秀吉とも懇意だったようですね。)
一時は勝家の後継者筆頭だったにもかかわらず、勝家に実子が生まれたことから冷遇されたとも言いますが、詳細は不明です。
養父勝家の死のほんの10日ほど前、天正十一年四月十六日に亡くなっています。
彼は豊臣家への出奔後、賤ケ岳の戦いにも参戦出来ないほど体調を崩していたようですが、これは勝家の息がかかっていることを警戒した秀吉の毒牙にかかった結果、あるいは勝家の怨念などが影響したのでしょうか……。
妻は『寛政重修諸家譜』では稲葉氏の娘(稲葉貞通の娘)ですが、『柴田勝家始末記』によると、勝家と側室・佐野の方との間に生まれた娘・於蝶(末森之方)とも。
勝家の娘を娶っていたにもかかわらず後継者から外れたのだとしたら、確かに勝家との関係はこじれそうですね……。
柴田勝家の養子④:女子(中村文荷斎某が女、高城源次郎胤則室)
『寛政重修諸家譜』において、柴田勝家の養女として名前が出てくる女性。
もともとは勝家の家臣の中村文荷斎(勝家の家臣として賤ケ岳の戦いの従軍、討ち死に)の娘として生まれましたが、父の主君である勝家の養女となります。
養父勝家の没後、勝家の甥(佐久間盛次の次男)・佐久間安政のもとに身を寄せたようで、安政がのちに北条氏へ落ち延びると彼女もまた同道します。
そして安政のあっせんで、千葉氏家臣、のちに北条氏家臣となった高城胤則に嫁いだそうです。
彼女と胤則の間には嫡子・高城胤重が生まれますが、胤則は若くして亡くなります。その後は再び佐久間安政のもとに身を寄せて子供を育てていたようです。
成長した胤重は旗本となりますが、実子に恵まれず、養子を迎えて家督を継がせています。
柴田勝家の実子たち
『寛政重修諸家譜』では柴田勝家の子供たちはいずれも「養子」として出てきますが、勝家には実子がいたという記録も残されています。
ここでは勝家の実子と伝わる人物について調べてみました。
柴田勝家の実子①:権六
勝家実子権六出生シテ、勝豊ヲウトンス、
引用:『武家事紀』
『武家事紀』において勝家の実子として名前が出てくる人物。
名前の「権六」は父・柴田勝家の通称でもありますから、勝家の期待の大きさを感じさせますね。
とはいえど「権六」という名前などの共通項から、『寛政重修諸家譜』では養子とされている柴田権六(柴田権六郎勝俊、幼名:於國丸)と混同されている、あるいは同一人物の可能性が高いように思われます。
本当に彼は勝家の実子だったのでしょうか?
ちなみに『武家事紀』によると、彼の誕生によって柴田勝豊と勝家の関係が悪化、のちの勝豊の出奔へとつながったとのこと……。
柴田勝家の実子②:於蝶(末森之方)
『柴田勝家始末記』によると、柴田勝家と側室・佐野之方の間に生まれた娘。
勝家の養子となった勝豊の妻となり、息子・國丸をうんだといいます。
この國丸が成長していれば、勝家の孫としていずれは柴田家の家督を受け継いだでしょうが、彼は祖父・勝家の死の1年前、天正十年に、幼くして亡くなったと『柴田勝家始末記』には記されています。
夫・勝豊は父・勝家と不仲で天正十年末に秀吉に投降していますが、彼女も夫についていったのかは分かりません。もしかしたらここで事実上の離婚状態になっていたかもしれませんね。
夫の勝豊は翌天正十一年には亡くなり、そこからわずか10日ほどで父・勝家も継母・お市の方と自害して果てます。
於蝶がどうなったかは分かりませんが、勝家は死の間際に妻子たちを殺した……ともいいますので、彼女も父と一緒に北ノ庄城にて亡くなったのかもしれません。
ただ夫ともども豊臣家に行っていたのなら、幼くして亡くなった息子、夫、父など家族たちの菩提を弔いながら生きた可能性も否定できないでしょう。
柴田勝家の実子③:六之助
『柴田勝家公始末記』において勝家と側室・佐野之方との間に生まれたとされる男子。
幼名だけしか伝わっていないことを考えると、おそらく夭折したものと考えられます。
柴田勝家の実子④:作次郎
『柴田勝家公始末記』において勝家と側室・佐野之方との間に生まれたとされる男子。
幼名だけしか伝わっていないことを考えると、おそらく彼もまた兄弟の六之助同様、夭折したものと考えられます。
柴田勝家の実子⑤:某
『柴田勝家始末記』において勝家と側室・佐野之方の間に生まれたとされる子供。
名前が「某」、つまり名前が全く分かっていないため、そもそも男子なのか女子なのかも分かりませんでした。
いずれにせよ兄たち同様に、幼くして亡くなったのでしょう。
柴田勝家の実子⑥:柴田勝里(庄左衛門・茂左衛門)
尾張藩士の家系図を集めた『士林泝洄』中で勝家の庶子として名前が出ている人物。
織田信雄の家臣だったといいます。
とはいえど、勝家の養子(男子)たちが離反した勝豊以外戦死している、あるいは自害に追い込まれていることなどを考えると、男子かつ実子であった勝里はなぜ生き延びたのか……?という疑問もありますね。(庶子で後継者からは外れていた?からでしょうか。)
柴田勝家の実子⑦:柴田勝忠(毛受照清)
柴田勝家の庶子として生まれますが、柴田家家臣・毛受勝照の養子だったといいます。
養父とされる毛受勝照は、もともと勝家の小姓でしたが、勝家に重用されて20代の若さで1万石を領していたともいいます。
そこまで重用していた家臣ですから、勝家も庶子の養育を任せたのかもしれません。
賤ヶ岳の戦いで養父の勝照、そして実父・勝家を失った後、何とか彼は北ノ庄城を脱出しました。
その後は親戚の佐久間氏(勝家の姉妹の夫である佐久間盛次の庇護を受けた……ともいいますが、この時すでに盛次は亡くなっているので、あり得るとしたら盛次の子の安政でしょうか?)などに庇護されていたようです。
後に養父の姓である毛受を名乗って敦賀城主・大谷吉継に仕えますが、主君の吉継ともども、関ケ原の戦いにおいて討ち死にしました。
彼の子たちも幼くして亡くなり、勝忠の子孫は途絶えたといいます。
柴田勝家の実子⑧?:柴田勝春(柴田善右衛門)
柴田修理進勝家-柴田善右衛門勝春
天正十一未年四月北之庄籠城之刻乳母之有懐家臣塩富頼母被介抱而北之庄出立之砌。
引用:『歴代表』
『士林泝洄』では勝家の甥(勝家の庶兄・入道信慶の子)とされていますが、『歴代表』などでは勝家の実子とされています。
勝春は北ノ庄落城時に落ち延びますが、勝家はこの息子が落ち延びる際に自身の肖像画をひそかに持たせたと伝わります。
勝春の子孫は柳川藩主立花家に仕え、その家系は現代まで続いている(柳川柴田家)といいます。
柴田勝家の子孫
柴田勝家の子孫ですが、実子と伝わる柴田勝春の家系、また柴田勝里の家系は後世まで続いたようです。(途中で養子を迎えている可能性はありますが……)
また勝家の甥で養子の柴田勝政の家系は2000石を領有する大身旗本となっています。
勝家のライバルであった秀吉の子孫は徳川幕府によって断絶させられ(秀吉唯一の子・秀頼の息子は殺され、娘は出家させられています)ましたが、勝家の子孫(養子の子孫)は大名でこそないものの、武家として長く続いたようですね。