江戸幕府二代目将軍・徳川秀忠には一人だけ同母の弟がいました。
彼の名前は松平忠吉、家康と側室・西郷局ことお愛の方との間に、家康の四男・福松丸として生まれた秀忠の同母弟は、しかし28歳という若さで早世してしまいます。
もしも長生きしていたら、紀州・尾張・水戸の徳川御三家に並ぶほど尊重されていたかもしれません。
そんな松平忠吉の妻(正室・側室)と子供、子孫はどうだったのでしょうか。
気になったので調べてみました。
松平忠吉の正室:井伊政子(清泉院覚窓栄正大姉、法名から清泉院と称されることも)
御女子●井伊兵部殿御簾中、此御腹●御女子御一人、是●松平下野守様(=松平忠吉)之御簾中、
※判読できなかった文字を●でおきかえています……。すみません。
引用:『石川正西見聞録』
女子 母は康親が女。松平薩摩守忠吉卿の室、忠吉卿逝去ののち、おほせによりて弟直勝が領地、上野国安中に住し、また弟直孝が領地、近江国彦根にうつり住む。
引用:『寛政重修諸家譜』
松平忠吉の正室は、徳川四天王の一人・井伊直政と正室・唐梅院(花)の間に最初に生まれた娘・政子でした。
天正八年(1580)生まれの忠吉との正確な年齢差は分かりませんが、井伊直政と母親・唐梅院との結婚が天正十一年(1583)頃であることを考えると、少なくとも忠吉より3歳は年下だったと思われます。
この結婚はもちろん、井伊直政と徳川家康の関係をより強めるものでもありましたが、おそらく母方の祖父・松平康親が東条松平家を次いでいた忠吉の後見人をしていたことも影響していたでしょう。
もしかしたら忠吉が東条松平家をついだ幼児の時にはすでに構想があった結婚かもしれません……。
此御祝言●上州みの●●兵部殿御座候時也
※判読できなかった文字を●でおきかえています……。すみません。
引用:『石川正西見聞録』
簾中 井伊兵部大輔藤原直政女 文禄元年壬辰十月十一日、武州忍城江入輿、寛永四年九月廿八日死、法名清泉院覚窓栄正大姉、御廟所未考
引用:『徳川諸家系譜 第二』
二人の結婚は父の直政が上野国箕輪城主になった後、文禄元年(1592)のことでした。
夫である忠吉は12歳での結婚、清泉院は両親の結婚年を考えるとまだ10歳にもなっていなかったと思われます。
結婚からおよそ5年後、慶長二年(1597、慶長三年という説もあり)、二人の間に待望の第一子が生まれました。
清泉院は両親の結婚年を考えると10代前半で母親になったと思われます。
あいにく、この息子は生まれてから半月ほどで亡くなってしまいます。
清泉院、そして忠吉の悲しみはいかばかりだったでしょう。
二人の夫婦仲がうかがえるようなエピソードはあまり知られていませんが、忠吉は関ヶ原の戦いの時には岳父である井伊直政を後見としており、直政の進言に従って行軍しています。
正室の父親と良好な関係を築いていたことを考えると、清泉院とも良好な関係を築いていたように思われます。
関ヶ原の戦いののち、夫の忠吉は尾張清洲五十二万石の城主となりますが、江戸時代に入って以後はたびたび病魔に苦しみ、慶長十二年(1607)に亡くなってしまいます。
二人の間には、慶長二年に夭折した男児以外の子供はおらず、また忠吉には他にも子供がいなかったため、忠吉の家系はここに断絶します。
清州藩は忠吉の異母弟・義直が継ぐこととなりました。
忠吉が亡くなったとき、まだ20代と若かったと思われる清泉院は、その後実家に戻ったようです。
最初は同母弟の直勝の領地・上野国安中(直勝は嫡男でしたが、病弱であることなどを理由に本家の家督を異母弟・直孝にゆずって分家を立てていました)に住んでいました。
が、その後なぜか、異母弟である直孝の所領である彦根に身を寄せたそうです。
どうも彦根に移り住む前に、皇族で豊臣家との深いかかわりがあった八条宮智仁親王との再婚の話が出ていたそうなのですが、これを断ったのちに彦根に移り住んだ?みたいです。
八条宮との縁談がいつ頃あったのかは分かりません。
八条宮の九条家出身の側室が1604年ごろに亡くなっていること、八条宮が正室との間に子供を儲けているのが1620年以降であること、1615年の豊臣家滅亡後、秀頼正室であった千姫と八条宮の縁談があった?という話などを考えると、1610年~15年ころ、30代になった清泉院に対して持ち上がった縁談だったのかな?という気がしますね。
なぜ彼女が縁談を断ったのかは分かりませんが、八条宮は豊臣秀吉の養子になったこともあったので、徳川家康の息子の妻であった清泉院としては受け入れがたかったのかもしれませんね。
彦根に移り住んだ後は再婚の話もなく、彦根で穏やかに暮らしたようです。
清泉院は寛永四年(1627)死去しました。わが子の死からおよそ30年、そして夫・忠吉の死からおよそ20年ほどたった後のことでした。
松平忠吉の側室:不明
忠吉は子供を正室・政子(清泉院)との間にのみ儲けており、他に子供を儲けている女性はいません。
亡くなったときは28歳と言えど、亡くなるまでの10年ほどは子供に恵まれていない状況であったことを考えると、子供を儲けるために側室を迎え入れてもおかしくはないのですが、側室がいた、という公的な記録は残っていないようです。
江戸時代に入ってから、特に亡くなる前のおおよそ3年ほどはかなり病に苦しんでいたようですので、そういう気分にもならなかったのかもしれませんが……。
なら忠吉は正室・政子に対して誠実だったのか、というと実はそうは言い切れない面もあったりします。
というのも、女性の側室の記録は残っていないのですが……当時の武家のたしなみ、男色の記録は残っているのです。
付家老の息子であった小笠原吉光のことを寵愛した忠吉は、なんと彼に一万四千石もの所領を与えていたりしています。吉光はのちにいきなり出奔してしまいますが、忠吉の死後、忠吉の菩提寺で殉死したとか。
他にも忠吉の寵臣が、忠吉の死の際に殉死しています。
少なくとも武家の習いとして、男色をひとなみに嗜んでいたのなら、やはり武家の男として側室の一人二人いてもおかしくはなさそうですが……どうなんでしょうね。
正室・政子(清泉院)の母親である唐梅院は夫の直政が側室を持つことを厭ったため、直政は庶子の直孝を手元で育てることもできない有様でした。
政子(清泉院)ももしかしたら、夫が側室を持つことを嫌がったりしたのかもしれませんね。
松平忠吉の子供:梅貞大童子(梅貞童子とも)
童形 慶長二年丁酉正月十日、誕生、○廿六日、早世、葬武州忍持田正覚寺、法名梅貞大童子
引用:『徳川諸家系譜 第二』
慶長三戊戌天 早世梅貞大童子尊霊 正月廿六日
引用:梅貞大童子の墓の墓碑銘より
松平忠吉の子供は、慶長二年(三年説あり)に生まれ、わずか16日後に亡くなった、「梅貞大童子」という法名を持つ男子のみでした。
忠吉はこの子供の誕生をとても喜び、生まれたばかりのわが子の成長を祈って、葵の紋を入れた御守筒(筒守り、子供の為のお守り)なども作らせました。
しかし、この子供は生まれてから16日ほどで亡くなってしまいます。
忠吉は当時住んでいた武蔵国忍の地にある正覚寺に立派な墓を建て、またこの時に、梅貞大童子のために作らせた御守筒なども正覚寺に寄進しています。
忠吉はこの子供の死がよほどつらかったのでしょう。
後年忠吉はある近臣に「子供は可愛いだろう」と尋ね、その近臣が気を遣って「可愛くありません」と答えたところ、それに怒ってその家臣を放逐したといいます。
松平忠吉の子孫
松平忠吉は唯一の実子・梅貞大童子を幼くしてなくしており、また養子などもとっていませんでした。
当然ながら、子孫はいません。
しかし忠吉の所領・清州藩と、彼の家臣や彼の持っていた宝物類などは、異母弟の義直に受け継がれ、義直の尾張徳川家の礎となります。
血を残すことはできませんでしたが、彼の築いたものは少なからず尾張徳川家に受け継がれたといっても良いのかもしれません。