柴田勝家の妻(正室、継室、側室)たち

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

織田信長の重臣であった柴田勝家。

後にお市の方の夫、そして彼女の三人の娘―後世に「浅井三姉妹」と伝わる三人の少女たちの継父にまでなった人物ですが、織田家当主などをめぐる争いの中で、豊臣秀吉と敵対、北ノ庄城にて妻・お市の方とともにその命を閉じることとなります。

そんな柴田勝家ですが、お市の方と結婚した時はすでに60歳、それまで未婚であったとは思えませんが……?

柴田勝家の妻(正室・継室・側室)について調べてみました。

柴田勝家の養子・実子・子孫たち
一時は秀吉と並び立ち織田家旧臣の中で権力を持っていたこともある柴田勝家。 主君・信長の妹であるお市の方の再婚相手にもなるなどしましたが、結局本能寺の変から一年たらずのうちに秀吉に追い詰められ、妻・お市の方ともども自害して果てることとなりま...

柴田勝家の正室(継室?):お市の方

室は織田備後守信秀が女。

引用:『寛政重修諸家譜』

柴田勝家は織田家の重臣であり、当時の武家のあり様などを考えてもそれまで一回も結婚していなかった……なんてことはありえないように思われるのですが、彼の妻(正室)として言及されているのはただひとり、お市の方のみです。

信長の後継者をめぐって議論が交わされた清須会議の後、この婚姻は成立しました。

この時お市の方に関心を寄せていた秀吉は悔しがったとも、またあるいは秀吉自身がすすんでこの婚姻話をすすめたとも言いますが……詳細は不明です。

天正十年八月、本能寺の変のわずか4か月後に、岐阜城にてお市の方と勝家の結婚がしめやかに執り行われました。

……しかしその8カ月後、賤ヶ岳の戦いで勝家は敗走、北ノ庄城になんとか帰り着きますが、北ノ庄城は秀吉の軍勢に取り囲まれ、もはや落城は自明の理でした。

前夫・浅井長政の自刃時にはお市の方は実家に戻りましたが、二度目の夫・勝家の自刃の時には、彼とともに自害することを選びました。

それは短い結婚生活ながらも年の離れた夫に対する愛情ゆえなのか、それとも秀吉のものにはならぬという堅い意志のもとでなされたものなのか……。

いずれにせよお市の方のこの短くも激しい生きざまは後世の人々を今もなお魅了し続けています。

彼女は勝家の家臣や一族と一夜を通しての宴会を執り行った後、見事に自害して果てました。

その遺骸は二番目の夫・勝家とともに越前の西光寺に葬られています。

柴田勝家の側室:佐野之方

妾佐野之方、実佐野源左衛門常世之末葉佐野六郎女、

引用:『柴田勝家始末記』

『柴田勝家始末記』内の『柴田勝家公略譜』において妾として言及されている人物です。

彼女の祖先とされる「佐野源左衛門」は能「鉢木」に出てくることで有名な武士で、諸国を漫遊していた執権・北条時頼を大切にしていた鉢植えの木をくべてもてなした……という逸話で知られている人物ですね。

ただ佐野氏の末裔は基本的には関東にいたようですが……なにかの縁があって勝家と結ばれたのですかね。彼女の父とされる佐野六郎についても詳しいことは分かりませんでした。

勝家とお市の方の結婚は相当後のことですから、もしかしたらお市の方との再婚前は彼女が事実上の正室格だったのかもしれません。

彼女は勝家の養子・柴田勝豊の妻となった於蝶(末森之方)と呼ばれる娘と、勝家の夭折したと思われる三人の子供(六之助、作次郎、某)の母親であると伝わります。

柴田勝家の正室・側室:不明

修理か腹之きり様見て、手本ニいたすへきよし申、東西ひつそとしつまり候得ハ、妻子さしころし、同名共七八十腹を切相果候事、

引用:『齋藤報恩博物館所蔵文書』(『大日本史料』より)

柴田勝家にお市の方、佐野之方以外に妻(正室・側室)等がいたのかどうかは不明です。

ただ勝家は北ノ庄城落城時に、自身の妻子らを刺殺、さらに一族・家臣7~80名ほどと自害した……という記録があります。

もしもこの記録が事実だとしたら、ともに自刃したお市の方以外にもこの時に命を落とした勝家の側室らがいたのかもしれません。

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