長篠の戦い、と聞くと、騎馬対鉄砲、三段打ちなどのキーワードを思い浮かべる人も多いのではないでしょうか。
実際のところ三段打ちがあったかは不明瞭だったりします。
が、いずれにせよ武田最強の騎馬隊を鉄砲軍団によって打ち破った長篠の戦いは、武田家の滅びの始まりであり、織田信長の覇道を勢いづけ、そして徳川家康が天下への道を歩み始めた契機となるなど、多くの人の運命を変える戦となりました。
そして、それはもちろん、長篠城主でもあった奥平家にとっても。
奥平家はこの戦を「開運戦」といい、この後の家康長女・亀姫の嫁入りなどもあって江戸時代に至るまでその権勢を徐々に高めていきました。
さて、この戦の勝利の陰には、ある一人の武士の奮闘がありました。
武士の名前は鳥居強右衛門勝商、奥平氏直々の家臣ではなく家臣の家臣―いわゆる陪臣、足軽・雑兵同然のこの武士は、長篠の地から遥々60㎞も離れた岡崎まで援軍を要請しに密使として赴きます。
そして援軍要請を成功させるもその帰途、武田家にとらわれますが、最後の最後、勝頼をだまして長篠城の武将たちの士気を奮い立たせ、長篠の勝利がつかみとられたのです。
そんな鳥居強右衛門ですが、妻や子、子孫にはどのような人物がいたのでしょうか。鳥居強右衛門の家族について調べてみました。
鳥居強右衛門の妻:寿姿妙全信女
鳥居強右衛門夫妻は、二人並んで尾張新城・甘泉寺(他にも豊川市市田の松永寺や、新昌寺などにも)に埋葬されています。
妻の名前は分かりませんが、「寿姿妙全信女」の戒名からすると「妙(たえ)」とかでしょうか?
鳥居強右衛門の妻は新城の作手村市場の出身だったといいます。
作手は戦国時代、奥平氏の勢力圏下でした。おそらく鳥居強右衛門の妻もまた、夫同様に奥平氏の家臣の娘だったのではないでしょうか。
当時は割と夫が亡くなったら再婚とかもしていた時代だったのですが、二人そろって埋葬されているところなどを考えると、鳥居強右衛門の妻は再婚せずに鳥居家を守ってその生涯を終えたのかもしれませんね。
鳥居強右衛門の子:鳥居強右衛門信商
鳥居強右衛門には息子が少なくとも一人いたようです。
かれは父・強右衛門の名を受け継ぎ、二代目鳥居強右衛門となりました。
父の功績で100石を拝領した信商ですが、彼自身なかなかやりてだったようで、関ケ原の戦いの後には西軍の有力者・安国寺恵瓊を捕縛すると言う功績を立てています。
この功績で彼の所領は倍の200石になりました。
信商は、主君・奥平貞昌と正室・亀姫の間に生まれた松平家治、家治の早世後は貞昌と亀姫の末子・松平忠明の家臣となっています。
彼の子孫もまた、「鳥居強右衛門」を名乗りました。
鳥居強右衛門の子孫
鳥居強右衛門の子孫は、松平忠明から始まるいわゆる「奥平松平家」に代々仕えました。
奥平松平家は何度か転封されているため、その転封に従って鳥居強右衛門の子孫も全国各地を移動したようです。
宝永七年(1710)に奥平松平家が桑名藩主となったため、六代目強右衛門清商から十一代目強右衛門までは桑名で生活していました。
しかし文政六年(1823)に、奥平松平家が忍藩主となったため、十二代目鳥居強右衛門商近以降は忍の地にて生活を送っています。
奥平松平家において「鳥居強右衛門」はかなりの家柄として扱われたようで、江戸時代後期~幕末の十二代目鳥居強右衛門商近、十三代目鳥居強右衛門商次らは家老にまで昇進しています。
是日東山道官軍先鋒の萩藩兵同駅に至り忍藩の形跡疑ふべきものあるを以て其兵器を収め、明日忍城を徇へんとす。忍藩主松平忠誠「下総守」家老鳥居強右衛門を遣して迎へ謝し、勤王証書を上る。藩兵乃ち其進撃を止む。
引用:『維新史料綱要』
鳥居強右衛門の名は代々家老鳥居家の名跡として受け継がれ、なんと明治元年・戊辰戦争時には、忍藩と新政府軍の仲介の使者として「鳥居強右衛門」の名前が登場しています。(この鳥居強右衛門は十三代目当主・商次だそうです。)
途中で養子等を迎えている可能性もありますが、鳥居強右衛門の家系が明治まで続いていたことが分かりますね。
しかも忍藩の家老……。奥平家に仕えるしがない下級武士から、鳥居強右衛門の子孫は大いに出世したのです。