大奥が盛んだった時代と言うのはいくつかあります。
最も盛んに使われた(であろう)時代は十一代将軍・徳川家斉の時代であろうと思われるのですが、ではその次に大奥が活気づいたのはいつだろう?となると意見が分かれるところではあります。
家斉ほどではないにしろ子供が多かった十二代将軍家慶の時代か、あるいは数人の側室を抱えていた六代将軍家宣の時代か、三代目将軍・家光の時代か、はたまた九代将軍・家重か……。
そしてもう一つ、候補に挙がるのが五代目将軍・綱吉の時代です。
綱吉の大奥は「綱吉の後継者を生み出す」という目的こそ果たせなかったものの、幾人もの側室たちが寵を競い合いました。
その綱吉の大奥の管理者―いわゆる大奥総取締だったと言われるのが、京より下ってきた公家の娘・右衛門佐局でした。
しかし彼女には何かと謎が多く、実は綱吉の側室だった!という説もあったりするのです。
謎に満ちた大奥総取締・右衛門佐局がどのような人物だったのか、とっても気になったので調べてみました。
右衛門佐局の名字は水無瀬 名前は不明
後に右衛門佐局と呼ばれる女性は、いつ頃生まれたのか判然としていませんが、一説には慶安三年(1650)の生まれだといいます。
当時の公家女性の大半のように、名前が何だったかは分かりません。名前(諱)がなかった(叙位でもされない限りつかなかった)可能性もありますが……。
彼女は、公家(羽林家と呼ばれる中堅の公家)の水瀬家当主・水無瀬兼俊もしくは水無瀬氏信の娘として生まれました。
ちなみにここで「もしく」としたのは、水瀬家の家系図には、水無瀬兼俊・氏信親子2人の子供にそれぞれ「右衛門佐局」の名前があるからです。
ちなみに兼俊娘(氏信姉妹)のほうは、「候後水尾院、後候関東大樹称右衛門佐。」であり、氏信娘(兼俊孫)のほうは「後水尾院右衛門佐局、後仕幕府上臈」と、書き方も似ており、判別が難しく……。
おそらく、右衛門佐局は1人なのでしょうが、彼女が誰の子なのかが混同されてしまったのでしょうね。
いずれにせよ、江戸時代初期の水瀬家当主の娘として生まれたことは間違いないようです。
ちなみに兼俊(もしくは氏信?)は妻に高槻藩主・内藤信正の娘を迎えていました。
また、氏信もどうも福島正則の親族(正則の兄弟・高晴の孫娘、あるいは正則の娘?)を妻にしていたようです。
右衛門佐局の母親が誰なのかは分かりませんが、彼女の実母か祖母、もしくは義母は武家の女性だったということになりますね。
案外、この母を通して右衛門佐局も武家の習慣などを見聞きすることもあったかもしれません。
右衛門佐局が江戸に来るまで
右衛門の佐殿、始の名は常磐井と号して、新上西門院(=鷹司房子、霊元天皇中宮にして綱吉御台所・信子の異母妹)の侍女にして、水無瀬中納言の御娘也、新上西門院殿は、常憲公の御台所の御連枝鷹司公の姫君にして、是より門院の御方へ才智の女儀を御所望有て、宮女の内より遷給りぬ。
引用:『柳営婦女伝叢』
右衛門佐局は、京にいるときはすでに院となっていた後水尾上皇の女官として勤めていました。
「右衛門佐局」と言う名前は、実はこの時にもらった名前では?とも言われています。
といっても仕えていたのは、後水尾上皇の最晩年(70代後半~80代)に近い延宝年間のことです。
右衛門佐局の叔母(もしくは大叔母)にあたる小兵衛局・水無瀬氏子は後水尾天皇の側室の一人でもありました(この少し前、寛文十二年に死去)から、彼女の出仕はおそらくこの叔母の縁故によるものだったのでしょう。
ちなみにのちのち、霊元天皇の後宮(院御所中臈)で、寵愛を受けて3人の子を産んだ女官・松室敦子も「右衛門佐局」を名乗っていました。
ですから、「右衛門佐局」というのはそれなりに由緒のある女官名だったようです。
ちなみに、延宝年間に後水尾上皇の院御所に出仕する前に、実は霊元天皇中宮・鷹司房子(後水尾天皇の息子嫁になりますね)の女官だったのでは?という説もあります。
この時は「常磐井」の名前で仕えていたとも言いますね。
ちなみに房子の姉・信子は綱吉の御台所です。この房子との縁もあって右衛門佐局は江戸に下ることになるのです。
右衛門佐局はなぜ大奥に入ったのか
右衛門佐局は延宝八年(1680)に後水尾天皇の死によって院御所を退いた後、甥もしくは兄である公家・町尻兼量のもとに引き取られています。
まだ若かったと思われる彼女ですが、結婚などは結局することはなかったようです。
そのおよそ4年後の貞享元年(1684)、彼女は再び女官の道を歩み始めます―しかし今度は、京を離れ、とおい江戸での仕事でした。
綱吉の一人娘・鶴姫が紀州藩主の世子・徳川綱教(ちなみにあの八代目将軍・吉宗の異母兄です)と結婚することとなり、その上臈―上級女官として、右衛門佐局が抜擢されたのでした。
右衛門佐局が抜擢されたのは、義理の娘・鶴姫付きの上臈(上臈には血筋や家柄の良さが求められ、公家の女性がつくことが多かったのです)を探していた綱吉御台所・信子が自身の妹・房子に「良い女性はいない?」と声をかけたからだとか。
そこで房子が右衛門佐局を推挙したと言うのが有力な説なようですね。
院御所、中宮御所にも長年仕えていた女性と言うこともあり、鶴姫の奥向きを支えることを期待されたのでしょう。
貞享二年(1685)に江戸に下った右衛門佐局は、そのまま鶴姫付きの上臈として、鶴姫ともども紀州藩邸に入るのですが……なぜかそのわずか2年後(貞享四年)に、紀州藩邸を離れ、大奥に入っています。
なぜ右衛門佐局が鶴姫付きを離れて大奥に入ることになったのか?そのあたりの理由はよく分かりません。
もしかしたらそれまで大奥を差配していた有力女官が亡くなる、もしくは女官を辞していなくなり、あらたに大奥を取りまとめる人が求められたのでしょうか。
右衛門佐局の大奥での生活
奥表の女中を支配有しに、其名甚高し、将軍家御台所も御旨に叶ひ、猶御台所より常憲公(=綱吉)御貰有て御年寄に被成、次第に出頭にて総女中頭と成、千石給りぬ。
引用:『柳営婦女伝叢』
ちなみに右衛門佐局はもともと御台所・信子付きの上臈だったと言う説もあるようですが、実際には信子の義娘・鶴姫に仕えていたためどうも違うようです。
大奥に入ってからは、彼女は綱吉付きの上臈御年寄として事実上大奥総取締の役割を果たすようになります。
彼女が大奥に入った少し後、側室お伝の方が三十歳になります。
当時の大奥に「お褥すべり」があったかどうかは定かではありませんが、それでも綱吉の側室がお伝の方だけというのはやはり不安もあったのでしょう。
新たな側室調達にと右衛門佐局(と綱吉の母・桂昌院)は駆り出されることとなります。
まず、元禄二年(1689年)頃に公家・清閑寺煕房の娘と同じく公家の難波宗量の娘が江戸へ下ります。
このうち清閑寺煕房の娘のほうは桂昌院付きの侍女「とめ」と名乗るようになり、そのうち綱吉のお手がついて側室「大典侍」となりました。(難波宗量の娘のほうがどうなったかは分かりません。おそらく手はつかず、そのまま上臈などにでもなったのでしょうか?)
また、御台所・信子付きの女中であった公家・豊岡有尚の娘も側室とあがり「新典侍(あるいは新助の方)」と名乗るようになります。
しかし新たに迎え入れたこの2人の側室から、結局綱吉の子が生まれることはありませんでした。
ちなみに、他にも(おそらく側室候補として)公家の娘・正親町弁子(町子)を大奥に呼び寄せましたが、彼女は最終的に柳沢吉保の側室になっています。
右衛門佐局の死と死因
右衛門佐局は宝永三年(1706)に、綱吉に先立って、大奥にて亡くなっています。死因は不明です。
彼女の死後、彼女のことを惜しんだ綱吉は、右衛門佐局の部屋子の婿「田中半蔵」なる人物を彼女の養子に取り立て所領などを受け継がせたようです。
また右衛門佐局は、死ぬ少し前に公家・西洞院家の娘で、10代のころには宮中で「勾当内侍」という実務女官のトップを務めていた女性を迎え入れています。
右衛門佐局は、この女性、「豊原」を自身の後継者とするつもりだったようで、豊原は右衛門佐局亡き後、将軍付きの筆頭老女(筆頭上臈御年寄)となっています。
右衛門佐局は綱吉の側室だったのか?
右衛門佐局は綱吉の側室だったのでは?と言う説もありますが、おそらく彼女は側室ではなかったでしょう。
理由はただ一つ、彼女の年齢ですね。
綱吉の時代に「お褥すべり」の制度があったかどうかは定かではありません。
しかし、綱吉に新たな側室が迎え入れられたのはお伝の方が30歳になった後であることを考えると、それに近いものは確実にあったのでしょう。
右衛門佐局は生年(慶安三年生まれとされ、お伝の方より年上)を考えると、大奥に入った当時はすでに30代半ばを超えていました。
側室の第一の役目は将軍の子を産むこと、それに尽きます。
当時としては「熟女」といってよい年齢で、若い女性に比べて子を産む可能性が低いと思われる右衛門佐局を果たして綱吉は側室にしたでしょうか?
おそらく、することはなかったでしょう。
彼女に「側室だった」という風説が生まれている理由は判然としません。
ただ、右衛門佐局よりずっと時代がさがった十二代将軍家慶時代の大奥総取締「姉小路」の存在が影響しているかもしれません。
当時、公家出身の上臈はなかなか権勢を誇ることはなかったのですが、例外的に姉小路だけは大奥総取締として莫大な権勢を誇りました。
なぜ彼女がそこまで強烈な権勢を誇ったのかは分かりません。しかし当時の人々も不思議に思ったようで、このようなうわさが出回りました。
実は姉小路は絶世の美女で、上臈でありながら(当時の側室は中臈からもっぱら選ばれ、上臈は側室になることはまずありませんでした)ひそかに家慶と床を共にしたから、その寵愛ゆえに権力を振るうことが許されたのだ、と。
もしかしたら、公家出身でありながら権勢を誇った大奥総取締・姉小路と同じく公家出身の大奥総取締・右衛門佐局は重ねあわされて、同じように側室だったようなイメージを持たれているのかもしれません。