戦国時代、武将たちの多くは美少年を寵愛した―いわゆる男色に励んだことで知られています。
例えば戦国大名の代表格でもある武田信玄は、男性の恋人に送った手紙が現代まで残っていたりしますね。
信長も森蘭丸ら小姓を抱えており、一説には加賀百万石の藩祖・前田利家も愛人の一人だったとか……。
ちなみに農民出身の秀吉は、あまりその気はなかったようで、美少年を見かけても「君にお姉さんか妹はいるかい?」と尋ねたのみだったとか。
さて、江戸幕府の開祖・徳川家康は信長ほどではありませんが、まったく男色とは無縁というわけではなかったようです。
ここでは家康の男色相手について調べてみました。
家康の男色相手①:井伊直政
井伊万千代と云ふは遠州先方衆侍の子なるが、万千代、近年家康の御座を直す。
引用:『甲陽軍鑑』
※御座を直す=寝所に侍るという意味合いです
家康の男色相手として名高いのは、徳川四天王の一人でもある彦根藩井伊家の祖・井伊直政でしょう。
男色というのは、家臣との結びつきを強める意味合いもありました。
もともと今川家臣であり徳川代々の家臣ではない直政と、家康が関係を結んだのもある意味自然な流れだったのかもしれませんね。
直政十五歳、美麗の美少年たり。神君に仕へて幸し、
引用:『塩尻』
直政は江戸時代の随筆集『塩尻』や、『甫庵太平記』『徳川実記』などの記録に残されているほどの美少年であったと言われています。
家康の寵愛を受けているにもかかわらず、家康の家臣の一人・安藤直次(後に御三家の紀州藩の附家老になります)が横恋慕して直政の寝室に忍び込んだことまであったとか。
直政は天正三年(1585)に15歳で小姓となった後、当時としてはかなり遅い22歳まで元服することはありませんでしたが、それも少年の美貌を惜しんだ家康が原因かもしれませんね。
直政は当初、井伊家が没落していたこともあって母の再婚相手の名字である松下を名乗っていましたが、家康の寵愛もあってか父祖代々の「井伊」姓に戻り、井伊家を再興させました。
さすがにある程度年齢を重ねると、家康との男色関係はなくなったようです。
しかし、直政がすでに中年になっていた関ケ原の戦いのあと、家康自ら負傷した直政を手当した!なんて話もあるようですから、家康にとってはなおも特別な家臣ではあったのでしょう。
直政は関ケ原の戦いでの傷が癒えず、家康に先立って亡くなってしまいますが、直政の子供・子孫たちは厚遇され、彦根藩主井伊家、越後与板藩主井伊家などと続いていきます。
彦根藩主井伊家からは幕末に大老・井伊直弼を輩出されるなど、直政の子孫は幕臣としても活躍しました。
家康の男色相手②:水野忠元
水野織部佐忠義〔信長衆〕の子監物忠元といふ人美男にて神君(家康)の男色成、依之頻に御取立に預かり大名と成る
引用:『古老茶話』
徳川四天王の一人でもある井伊直政ほど有名ではありませんが、その美貌ゆえに家康の寵愛を受け大名まで取り立てられた!と言われているのが、水野忠元です。
忠元は天正四年(1576)生まれですから、直政が寵愛を受けた後、しばらくたってから寵愛を受けるようになったのでしょうね。
忠元は水野忠守(家康の母方の叔父)の息子で、家康の従兄弟にあたります。
当時、水野氏は織田信長の差し金で当主を殺され所領を奪われるなど、辛酸をなめていました。
しかし忠元は、家康に寵愛を受け、さらに家康の嫡男・秀忠に仕えることまで許されました。
家康だけでなく、秀忠の家臣であったこともあってか、忠元は水野監物家(山川水野家とも)を立て、下総山川藩3万5千石の藩主となります。
水野監物家からは、江戸時代末期までに3人の老中が輩出されました。
その中には天保の改革で名高い水野忠邦までいますから、忠元の子孫が直政ほどではなくとも、相当栄えたことが分かります。
ちなみに、忠元には二人の兄がいました。
この兄たちは、いずれも大名ではなく尾張藩士、旗本という身分でした。そう考えると、忠元の異常な昇進ぶりが良く分かりますね。
家康の男色相手?:榊原康政
家康は信長ほど男色にふけったわけではないようですが、井伊直政・水野忠元らを寵愛するなどしたことを考えると、まったくその気がなかったということもないようです。
井伊直政に関しては家康が唯一愛した美少年!とも言われていますが、家康にはその後水野忠元との関係もあったようです。
ですから直政以外にも、家康に男色相手がいた可能性は高いでしょう。
そこで家康の男色相手だったかも?と候補に挙がるのが、井伊直政同様徳川四天王の一人として名高い榊原康政です。
榊原康政はもともと徳川家家臣・酒井氏の陪臣の次男、つまり家臣の家臣、しかも家督を継がない次男という立場にあり、生まれは決して恵まれていません。
しかし、その智謀などを買われて家康の小姓となり、さらには兄を押しのけて榊原氏の家督を継ぐ、後には舘林藩主となるなどかなりの昇進を果たしました。
康政が家康の男色相手だった!という記録は残されてはいません。
しかし、武将たちの男色相手に選ばれがちな小姓を務めていたこと、さらに卑賎の家柄の次男でありながら後には大名になるなどの昇進ぶりなどを考えると、直政の前に、若き家康の寵愛を受けていた……可能性は否定できないように思われます。