鎌倉殿の13人・鶴丸のモデル?内管領(家令・御内人頭)・平盛綱

中世史(日本史)

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鎌倉幕府というのは、権力が激しく移動した政権でもありました。

朝廷から鎌倉将軍へと移動した権力は、幕府内でさらに執権・北条家、さらに北条一族の中でも得宗家へと移り動き、最終的に北条一族ですらない、北条家の家人に過ぎない「内管領」へと移りました。

その内管領の地位に就いたと言われるのが、北条泰時の家人であった平盛綱です。

『鎌倉殿の13人』における架空の人物・鶴丸のモデルでは?とも言われる平盛綱がどのような人物であるのか調べてみました。

平盛綱と『鎌倉殿の13人』の鶴丸の共通点

鶴丸=平盛綱説に関しては、実はいくつか根拠があるようです。

  • 鶴丸は孤児だったが、平盛綱も出自が不明であること(一説には平家の平資盛の御曹司ともいいますが、いずれにせよ平家滅亡後は孤児ですね。)
  • 鶴丸は泰時の家人だが、盛綱もまた北条義時の代から北条氏に仕えていたこと

こういった共通点から、鶴丸=平盛綱説が根強いようですね。

北条泰時の有力な家人としては、他に尾藤景綱(内管領の前身である家令職を務め、泰時次男の乳父も務めていました)などもいます。

しかし尾藤景綱は父親の名前も判明している(尾藤知景)ことを考えると、やや鶴丸の要素は薄いように思われます。

平盛綱の出自・来歴

五月大廿二日乙巳。陰。小雨常灑。夘尅。武州進發京都。從軍十八騎也。所謂子息武藏太郎時氏。弟陸奥六郎有時。又北條五郎。尾藤左近將監〔平出弥三郎。綿貫次郎三郎相從〕。關判官代。平三郎兵衛尉。

引用:『吾妻鏡』

平盛綱は出自が分かっていません。

平清盛の孫・資盛の息子とも子孫とも言われていますが、平家の男子が殺害されたり(資盛の甥・六代なども殺害されました)僧籍に入れられたことを考えると、さすがに違うようにも思われます。

北条氏自身も平家ですから、北条氏の傍流だったのかもしれません。

彼はいつのころからか、得宗家の北条義時、北条泰時らの家臣として名をはせるようになります。

承久の乱時には、泰時、泰時の息子・時氏らと同道して都へ向かっています。

そして承久の乱後には、「安芸国巡察使」に任ぜられるなど、御家人に並ぶほどの活動っぷりだったようです。

さらに、北条泰時の家臣として、北条家の家法、また御成敗式目の制定にも尽力しました。

長年仕えた主人・北条泰時の死後すぐの仁治三年(1242)に出家し、建長二年(1250)三月ころまでには亡くなっているようです。

その来歴などからすると、源頼朝にとっての安達盛長のような立ち位置の人物だったのかもしれませんね。

盛綱自身は北条得宗家に忠実だったようですが、盛綱の子孫はその後主家をもしのぐほどの権勢を誇ります。

孫とされる平頼綱は有力御家人であった安達氏を滅亡に追いやりましたし、子孫の長崎氏もまた内管領として権威を振りかざします。

しかし彼ら盛綱の子孫たちもまた、元弘三/正慶二(1333)の鎌倉幕府滅亡に伴い、北条一族に殉じて亡びることになります。

平盛綱と義円の関係

義圓禪師爲盛綱被討取。藏人次郎爲忠度被生虜。泉太郎。同弟次郎被討取于盛久。此外軍兵。或入河溺死。或被傷殞命。凡六百九十余人也。

引用:『吾妻鏡』

平盛綱、という名前の人物は実は源平合戦期にもう一人出てきています。

伊勢平氏の傍流であった平盛綱(高橋左衛門尉)ですね。

彼は墨俣川の戦いで、源氏方の武将・義円(阿野全成、義経の同母兄弟)を討ち取った平家の侍大将でした。

では、この平盛綱は北条家の家人であった平盛綱(三郎兵衛尉)と同一人物なのでしょうか?いえ、おそらく別人でしょう。

平家方の武将であった平盛綱は、承安四年(1174)に任官していることなどからすると、どれほど若くても1160年代前半までの生まれであると考えられます。

一方、北条家家人であった平盛綱は、生没年は不詳ですが、活動歴が承久の乱(1221)前後から始まり、仁治三年(1242)の出家まで政治的に活動していたようです。

もしも平家からの武将の平盛綱が北条家の家人になったとしたのなら、源平合戦期~承久の乱までの空白期間の存在はやはりおかしいでしょう。

また、仁治三年(1242)まで生きていたとしたら出家した時点で80歳過ぎになるので、さすがにそこまで生き、積極的に活動を続ける少し難しいような気がします。

この二人の平盛綱が親戚関係、というのは十分にあり得ることですが、しかし同一人物とみなすのは難しいでしょう。

平盛綱と平頼綱の関係は?

平盛綱と名前がよく似ている人物に「平頼綱」がいます。

もしかしたら、大河ドラマ『北条時宗』内における、北村一輝さんの怪演が印象に残っている人もいるのではないでしょうか。

この平頼綱という人物は、八代目執権北条時宗に仕え、さらにその息子の北条貞時の乳母父となり、幼い執権の内管領として、恐怖政治とも称されるほど強権的に権力をふるいました。

後年、息子とのいざこざや貞時との関係のこじれから、「平頼綱の乱(平禅門の乱)」で討ち滅ぼされてしまうこととなるのですが……。

この平頼綱、その名前からもうっすら察せられるように、盛綱の子孫にあたると言われています。

盛綱の息子である盛時の嫡男が、頼綱だと推測されています。

頼綱の家系はのちに権威を失いますが、頼綱の弟の家系にはじまる長崎氏が盛綱以来の内管領の地位を継承し、鎌倉幕府滅亡までその権威をふるい続けました。

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