明治四年、岩倉使節団とともに「日本初女子留学五少女」としてアメリカに留学を果たした上田悌子。
しかし、津田梅子、永井(瓜生)繁子、山川(大山)捨松とは異なり、留学途中で帰国を果たすこととなります。
そんな上田悌子(てい)について調べてみました。
上田悌子(てい)は幕臣の娘で、『海潮音』上田敏の叔母
上田悌子は、安政二年(1855)に、新潟奉行支配並定役を務めた幕臣・上田友助(東作、畯)の娘として生まれました。
父の友助は、幕末の文久遣欧使節にも随行するなど、西洋文化に精通しており、明治維新後は外務省で勤務していました。
ちなみに、津田梅子の父・津田仙とは、新潟洋学講習所の講師仲間でもあり、また吉益亮子の父・吉益正雄とも外務省時代同僚でした。
悌子の6歳上の姉・孝子(こう)は、幕臣の乙骨亘(のちに婿入りして上田絅二)と結婚し、『海潮音』などで知られる詩人・上田敏を産んでいます。
幼い悌子は、父が新潟港開港事務の任についているときに、アメリカ人女性宣教師のメアリー・キダー(後にフェリス女学院を創設)の新潟キダー塾で英語を学びます。
父やメアリー・キダーから薫陶を受けた悌子が、留学生に選ばれたのはある意味当然のことだったと言えるでしょう。
岩倉使節団と上田悌子(てい)
上田悌子は明治四年(1871)の、岩倉使節団とともにアメリカへ赴く、5人の女子留学生に選ばれました。
この時悌子は数え年で16歳、女子留学生たちの中では吉益亮子(りょう)と並んで、最年長でした。
しかし、慣れぬアメリカの生活は、すでに思春期に差し掛かっていた悌子にとってはかなり苦しいものだったのかもしれません。
年少の3人(津田梅子、永井繁子、山川捨松)たちはカルチャーショックを受けながらも徐々にアメリカの生活になじんでいきました。
しかし、吉益亮子(りょう)と、上田悌子は、アメリカ到着から1年もたたない明治五年(1872)10月に帰国することとなります。
吉益亮子は眼病だったと伝わりますが、悌子のほうは具体的な病名などはよく分かっていません。一説には慣れぬ異国の地で、心身を病んだためだと言います。
上田悌子、吉益亮子の二人は、国費留学を道半ばで断念したことを、大層悔いていたと伝わっています。
上田悌子(てい)のその後
夢半ばで帰国した上田悌子でしたが、もともと持っていた西洋への関心は薄れてはいなかったようです。
帰国したその年の冬には、吉益亮子(りょう)ともども、アメリカ人女性宣教師によって横浜に作られたアメリカン・ミッション・ホームという寄宿制の女学校(後の共立女学校)に入学を果たしています。
その後、吉益亮子は教師としての道を歩みますが、悌子は家庭に入ることを選んだようです。
上田悌子は、9歳年上の医師・桂川甫純と結婚します。
夫の桂川甫純は、奥医師・蘭学家の桂川家の分家筋の人物でした。(ちなみに、悌子は後妻だったそうです。)
二人の間には二男四女(一説には一男四女)が生まれたといいます。
桂川甫純は医院を開いたりしていましたが、あまり営業の方は芳しくなかったともいうので、悌子もなかなか苦労したのかもしれませんが、甫純の死まで添い遂げました。
上田悌子(てい)と津田梅子
上田悌子は津田梅子らを置いて先に帰国することとなりましたが、それ以後まったく梅子たちに会うことはなかった……というわけでもありませんでした。
彼女たちが中年に差し掛かった大正五年(1916)、津田梅子の家で、梅子と永井(瓜生)繁子、山川(大山)捨松らと、上田悌子は44年ぶりの再会を果たします。
悌子本人は、当初やはり自分が先に帰ってしまった……ということもあり、気後れがあったようですが、一度出会って話始めると、やはり思い出話に花が咲いたようです。
これに先立つことおよそ20年前に、吉益亮子(りょう)は、コレラで亡くなっていましたが、もしも生きていたとしたのなら、亮子もまたこの場にいたことでしょう。
会話の流れで、亮子の話になることもあったそうですが、やはり四人とも悲しい気持ちになっていたようです。
これ以後、彼女たちがどのようなやり取りを交わしたのかは不明ですが、また四人で並んで吉益亮子の墓参りなどに赴くこともあったのかもしれません。ただこの3年後に、山川(大山)捨松は没しています。
上田悌子(てい)の死因
上田悌子(てい)が亡くなったのは昭和十四年(1939)のことでした。
津田梅子(昭和四年死去)、永井(瓜生)繁子(昭和三年死去)、山川(大山)捨松(大正八年死去)を全員見送った後の死でした。
死因がどのようなものだったのか?詳しいことは分かりませんが、80代半ばでの大往生ですから、おそらく事故などではなく、老衰などでの死だったのではないでしょうか。