承久の乱では、後鳥羽院側、つまり京(宮)方の武将はことごとく敗北を喫しました。しかしその中で、唯一といっていいほどの活躍をしたのが、尾張国の武将・山田(泉)重忠でした。
承久の乱の英雄の一人と言っていい山田(泉)重忠について、紹介していきます。
山田(泉)重忠の出自
山田(泉)重忠は、源氏の武士である山田重満の次男として生まれました。父方の従姉妹には、二代将軍源頼家室・辻殿(足助重長娘)がいます。
重忠の父・重満は源平合戦下の墨俣川の戦いで、新宮十郎・源行家に与し、討ち死にしています。
重忠は、源行家の娘と結婚し、娘婿になっていましたが、舅の行家は、文治二年(1186)に、頼朝と対立したことで処刑されました。
重忠自身には特にお咎めはなかったようですが、このことがもしかしたら重忠の幕府に対する遺恨となっていたのかもしれません。
承久の乱での山田(泉)重忠の活躍
平内左衛門がをしつけを、ちやうちやうと二うち三うち■たたかひにうつ。うたれへひるむ所を、山田次郎がらうどうあらさこんおち合、平内左衛門がくびをばとつてけり。
引用:『承久軍物かたり』
重忠は鎌倉幕府から尾張国山田荘の地頭に任ぜられ、幕府の御家人でありましたが、同時に後鳥羽上皇の側近でもありました。
重忠は鎌倉に赴くことはほとんどなく、もっぱら京の後鳥羽上皇のそばで生活していたようです。
重忠が、承久の乱の際に後鳥羽上皇のもとについたことも、ある意味必然だったのでしょう。重忠は息子重継、孫兼継ともども後鳥羽上皇のもとにはせ参じます。
重忠は優秀な武将でしたが、しかし京方の多くの武将はそうではありませんでした。
京方の大将・藤原秀澄に対し、重忠は大軍でもって鎌倉まで攻め入る積極策を提示しますが、それは受け入れられませんでした。もしもこの献策が受け入れられていれば、少しは承久の乱の行方も変わったかもしれません。
重忠たちは分散された兵力でもって幕府方と戦いますが、最終的には19万騎にまで膨れ上がった大軍を前に、なすすべもありませんでした。
しかし、重忠はその中でも何とか奮戦し、美濃国の杭瀬川の戦いでは、自軍300人に対し、10倍の3000人にも及んだ児玉党の武者を相手取り、100人ほどを討ち取りました。
また幕府軍に対する最終防衛線の一つ・宇治川の戦いにおいては、重忠の郎党が、幕府方の武将・熊谷直国を討ち取り、京方の数少ない戦功を立てました。
山田(泉)重忠の死
山田ノ次郎ばかりこそ、されば何せんに参けむ、叶はむ物故 一足を引つるこそ口たしけれとて、大音声を上て門をたたき、日本一の不覚人をしらすしてうきしづみたる口をしさよと、
引用:『承久記』
しかし重忠一人が頑張ったところで、京方の劣勢はくつがえせるものではありませんでした。宇治川の戦いで京方は敗北、その2日後には幕府軍が京の都へと押し寄せました。
重忠は、三浦胤義(三浦義村の弟)らとともに、最終決戦をもくろみます。上皇たちのいる御所での決戦をと考えた彼らを待っていたのは門前払いでした。
後鳥羽上皇は、京方の軍勢はもはや勝ち目がないことを悟り、重忠ら京方の武将のはかりごとであり、自分は関係ない!という態度をとることにしたのです。
固く閉ざされた門の前で、重忠は後鳥羽上皇のことを「日本一の不覚人(日本一の臆病者、卑怯者)」と罵ったといいます。
その後、失意の重忠は東寺にて、三浦胤義らと立てこもります。彼は幕府方の15人の武者を討ち取りましたが、同時に重忠の郎党たちの多くもその場で討ち取られました。
重忠はその足で嵯峨野の般若寺山に落ち延び、自害したといいます。
嵯峨野左衛門二仰付ケ、般若寺山ヨリ山田次郎自害ノ首ヲゾ召出ス
引用:『承久記』
主君に裏切られた、その無念はいかほどばかりだったでしょう。
山田(泉)重忠の子と子孫
山田は自害して伏にけり、伊豆守は生どられぬ。
引用:『承久記』
山田重忠には一人息子・重継がいました。この重継は「伊豆守」と名乗っていたそうです。
重継は父・重忠が自害する時間を稼ぐために嵯峨野にて奮戦し、幕府方に生け捕られることとなりました。
その後の重継についてはよく分かっていませんが、京方の武将たちが家族もろともことごとく処刑されたことを考えるならば、重継もまた処刑されたと考えるのが自然でしょう。
重継には、嫡子の兼継と重親、蓮仁の3人の男子がいたようです。
父とともに承久の乱に従軍した兼継は命を許されましたが、しかし流罪に処されます。のちに許されますが、出家したといいます。
また末弟・蓮仁も出家し、山田法師と名乗ったようです。
重親のみが武士として子孫を残しました。重親の息子(次男)・泰親は鎌倉幕府の御家人となることを許され、後に尾張国菱野の地頭となっています。
重忠の子孫には清和源氏満政流の山田氏、その庶流の岡田氏がいるようです。
重忠のひ孫で泰親の兄にあたる重泰の子孫の山田氏は、後に三河国へ移って松平家の家臣となり、江戸幕府以降は旗本となったようです。
重忠のひ孫、泰親の子孫は岡田氏を名乗り、織田家に仕えた後、徳川家家臣、前田家家臣となったと伝わります。
ちなみに、今川家の家臣であった山田景隆もまた、山田重忠の流れの山田氏の出身であったといいますが、こちらの家系は断絶しています。
長母寺と山田(泉)重忠
尾州ニ山田次郎源重忠ト云シハ。承久之時。君ノ御方ニテ打レシ人也。弓箭ノ道人ニユルサレ。心モタケク器量モ人ニスグレタリケル者カラ心モヤサシクシテ。民ノ煩ヲ思ヒ知リ。ヨロヅ優ナル人也ケリ。
引用:『沙石集』
尾張国にある長母寺は、治承三年(1179)に、山田重忠が母の菩提を弔うため観勝法師を迎え天台宗桃尾寺として創建したものに始まると言います。
重忠は信仰心が篤かったようで、このほかにも父を弔うため、兄を弔うために長父寺、長慶寺を立てたとの伝承も残っています。
鎌倉によって滅ぼされた梶原氏の末裔とも言う無住はまた、同じように鎌倉幕府によって死に追いやられた重忠への関心があったのかもしれません。(無住自体は重忠没後に生まれているため、面識はないようです。)
彼は重忠の建てた桃尾寺に入り、禅宗寺院「長母寺」に改め、およそ半世紀にわたり長母寺にて生活を送りました。
その中で彼は『沙石集』を書いていますが、重忠のことを「すべてにおいて優れた人」と評価しています。重忠の領地であった場所で生活する中で、領民から重忠のことを聞くこともあったのかもしれません。