戦国時代、武家の女たちはまるで道具のように、父、兄弟、家のために、他家に嫁ぎました。
嫁ぎ先、また実家でその権威を振るった強い女性たちも多くいましたが、そうでもない女性たちも、もちろんいました。
卿紹介したいのは諏訪御料人、武田家最期の当主(実際は「陣代」という中継ぎ当主扱いですが)勝頼を産んだ女性です。
夫となった武田信玄に実家を滅ぼされ、さらには子供を産まされるという激しい生涯を送った彼女に迫ってみました。
諏訪御料人の父は諏訪頼重、母は小見(麻績)氏
諏訪御料人は、諏訪大社の神官を務めた諏訪氏の当主・諏訪頼重の長女として生まれました。
ちなみに諏訪頼重という名前、実は南北朝期に北条時行を奉じて中先代の乱に参陣した諏訪家当主の名前でもあります。(最近ならば漫画『逃げ上手の若君』にも胡散臭い感じで出ているから、おそらくご存じの方もいらっしゃるのでは?)
諏訪御料人の父・諏訪頼重は南北朝期の諏訪頼重の子孫でもありました。しかし、ある意味歴史に名前を残したご先祖様の名前をなぜあえてつけたんでしょうね?
諏訪頼重は若干14歳で、祖父の跡を継いで(父は早世していました)諏訪家当主になるのですが、実はこの年、すでに子供が生まれています。
その子供が諏訪御料人でした。戦国時代の男性の中でも、かなり早いうちに子供が生まれた人物ですね。
諏訪頼重はこの当時、まだ正室は娶っておらず、諏訪御料人の母は頼重の側室の女性でした。
諏訪御料人の母、小見(麻績)氏こと華蔵院(勝頼の時代には「太方様」「大方様」とも)は、信濃国守護・小笠原氏の庶流の出で、彼女の父も小笠原氏の家臣だったようです。
小笠原家臣の娘がなぜ諏訪家の側室になったのかはちょっとよく分かりませんが……。
小見(麻績)氏と、頼重の間に生まれたのは諏訪御料人だけでした。ちなみに諏訪御料人の母・小見(麻績)氏は、娘よりも長生きし、一説には勝頼ともども天目山で自害したとも言われています。
諏訪御料人が10歳を過ぎた頃、父は正室として武田信玄の異母妹(武田信虎の側室の娘)である禰々姫と結婚します。ちなみに諏訪御料人と禰々姫はわずか2歳差だったとも。戦国時代とは言え、なかなか複雑ですね。
義母にあたる禰々姫は、諏訪御料人の異母弟にあたる男児・寅王を産みますが、頼重の死からほどなくして早世、残された寅王は一時は諏訪家の次期当主に擬せられるも、信玄の暗躍により、当主の座を継ぐことはできませんでした。
諏訪御料人の家紋は?
諏訪御料人の実家・諏訪家は、家紋として「諏訪梶葉」と呼ばれる梶の葉紋を使用していました。
諏訪家は諏訪上社の神官(諏訪下社の神官は金刺氏)だったため、梶葉紋の中でも、上社の神紋「四本足の梶葉(根あり梶)」にちなむ「四本足に三本梶」という紋でした。
この梶の葉は、神功皇后の三韓征伐にちなむものとも、平安初期の征夷大将軍・坂上田村麻呂の故事にちなむものとも言われますが、もともとは諏訪大社の神紋として使われていたものでした。それが後代、諏訪大社の大祝である諏訪家の家紋になったようです。
ちなみに諏訪家は他にも、諏訪大社のみ使いである鶴をモチーフにした「鶴丸」という家紋も使っていたそうです。
ちなみに、諏訪御料人は戦国時代の女性のため、江戸時代以来関西地方などで使われるようになった「女紋」の類は使用していなかったでしょう。
諏訪御料人の家紋は「四本足の根あり梶」もしくは「鶴丸」紋でしょう。
諏訪御料人の名前は?本名や別名、名前の読み方など
諏訪御料人はその数奇な生まれから、様々な歴史小説や大河ドラマに出演してきました。しかし、ある小説では「由布」、あるドラマでは「湖衣」と、名前は一定しません。
というのも、諏訪御料人の名前(本名)は分かっていないのです。
後世に彼女を指す言葉として使用される「諏訪御料人(読み:すわごりょうにん)」というのは、「諏訪家の高貴な女性」くらいの意味で使用される称号です。「諏訪御前」、「諏訪姫」も同様です。
彼女の名前は現代まで伝わっていませんが、戒名が「乾福寺殿梅巌妙香大禅定尼」であることなどから「梅姫」では?という説もあるようです。
ただ、当時の女性の戒名は決して女性の本名にちなんだものではなかった(例えばお市の方→「自性院殿微妙浄法大姉」もしくは、「東禅院殿直伝貞正大姉」、「照月宗貞禅定尼」であり「市」という字は含んでいません。)ことをかんがえると少し根拠は弱い気がしますね。
信玄は早世した長女の菩提寺に「黄梅院」と名付けるなどしていますから、自分が好んだ「梅」という字を側室の戒名にも使っただけのような気もします。
諏訪御料人は美人だったのか
諏訪御料人が美人だった!というのは、おそらく武田氏にまつわる軍学書『甲陽軍鑑』中における「かくれなきびじん」という記述によるものでしょう。しかし、実際に諏訪御料人が美女だったのか?はよく分からないとしか言えません。
『甲陽軍鑑』自体、長篠の戦い前後に書かれ始めたものであり、まず彼女の生前に著されたものではありません。また諏訪御料人が美女であり、そして信玄の寵愛が深かったとすると、彼女が子供を勝頼一人しか産んでいないのは少しおかしいような気もします。
子供の数=愛情とは到底言い切れませんが、信玄は正室・三条の方との間には5人、側室・油川夫人との間には4人ないし5人の子供を儲けています。彼女たちを差し置いてまで、諏訪御料人は信玄に特別視されていたようには思えません。
諏訪御料人が美女だったのか、そうでなかったのかはよく分からないと言えるでしょう。
なぜ諏訪御料人は武田信玄の側室となったのか
諏訪御料人が武田信玄の側室となった時期は分かりません。ただ一般的には、諏訪頼重の死後で、諏訪御料人が14歳になったころの話ではないか?といわれているようです。
ただ、諏訪御料人は諏訪頼重の娘として、武田信虎が当主の時代にすでに甲府に人質として預けられていたという話もあるため、側室となることが決まるよりも前に、信玄と言葉をかわすこともあったかもしれません。
信玄が諏訪御料人を側室として迎え入れたのは、彼女自身への関心と言うよりは、諏訪家はもちろん、信濃の武士衆の慰撫、懐柔といった目的が強かったのではないでしょうか。
当初は自身の甥にあたる寅王を使って、諏訪家を懐柔しようとしたのでしょうが、その方針を転向し、自身の子に諏訪家を継がせることでより強固に諏訪家を支配しようとしたのでしょう。
実際、諏訪御料人の産んだ勝頼は、正室腹の長兄・義信とは異なり、武田家の通字「信」ではなく、諏訪家の通字「頼」を使用したことからも、信玄自身、諏訪家の後継ぎたらしめんと育てたのでしょう。
三条の方と諏訪御料人の関係性
諏訪御料人はあくまでも信玄の側室という立場でありました。諏訪御料人が嫁いだ時は、信玄の正室(本当は継室ですが)である三条の方がおそらく甲府において、信玄の家の奥向きを担ったことでしょう。
信玄の側室としてしられているのは、諏訪御料人、禰津御寮人、油川夫人の3人ですが、諏訪御料人は彼女たちの中ではおそらく最初に信玄の側室となった女性です。
三条の方としては、夫が初めて迎えた側室ということで少しピリピリはしたかもしれません。
ただ三条の方自身は穏やかな性格の女性であったと伝えられることなどを踏まえると、おそらく表面上は穏やかな関係ではあったのでは?とは思われます。
諏訪御料人の息子と娘
諏訪御料人には、息子が1人います。娘はいません。
諏訪御料人の息子・勝頼はいわずとしれた戦国大名としての武田家最後の当主になりますね。彼はまた、母方の祖父・頼重の跡を継いで、諏訪氏の当主になっていたこともありました。
彼が長篠の戦いで織田信長に敗北し、その後坂道を下るように天目山で自害に追い込まれたことは、多くの人が知ることでしょう。
諏訪御料人と高島城
諏訪湖のほとりに建てられた「諏訪の浮城」こと諏訪・高島城は、江戸時代、信濃諏訪藩の藩主・諏訪家の居城でした。
この城に、諏訪御料人は住んでいたことがあるのでしょうか?―答えは否です。
諏訪御料人の父・諏訪頼重は高島城ではなく、諏訪大社の門前町をも城下に含んだ上原城にて主に生活していました。
諏訪の地に高島城が築かれたのは天文十八年のことで、このころにはすでに、諏訪御料人は信玄側室となっていたと思われます。(彼女の輿入れは天文十二年もしくは十四年のことだと言われています。)
諏訪御料人は、おそらく高島城に足を踏み入れたことはなかったのではないでしょうか。
諏訪御料人の息子・勝頼は父の跡を継ぐ前は高遠城主でしたから、高遠城に拠点を置き、高島城には住んでいなかったようです。ただ、諏訪地方の要衝となっていた高島城に足を踏み入れたこと自体はあったのではないでしょうか。
ちなみに、高島城を居城とした諏訪氏の諏訪藩主・諏訪頼水は、諏訪御料人のはとこ(諏訪御料人の祖父・諏訪頼隆の弟である満隣の孫)にあたります。
諏訪御料人の死因
諏訪御料人の死因については、実はよく分かっていません。彼女は弘治元年(1555)、もしくは天文二十三年(1554)に亡くなっており、信玄に嫁いで約10年ほど、20代のうちに亡くなったようです。
かつては、諏訪家滅亡の苦しみに耐えられず諏訪湖に身を投げた……という伝承などもあったようですが、それはさすがに根拠がないようです。
ちなみに、信玄の正妻・三条の方は、信玄から労咳をうつされて亡くなったといいます。
三条の方の死は元亀元年のことで、諏訪御料人の死の15年後のことですが、諏訪御料人も労咳で亡くなった可能性はもしかしたらあるかもしれませんね。いずれにせよ、なんらかの病気で亡くなった可能性は高そうな気がします。
諏訪御料人の墓
諏訪御料人の墓は、諏訪の高遠の地にあります。信玄が帰依した臨済宗僧侶・東谷宗杲禅師が中興の祖となった鉾持山乾福興国禅寺こと「建福寺」の中にあります。
ただ、これは、息子の勝頼が、武田家菩提所として改めて埋葬した墓のようです。それまで彼女がどこに葬られたのかは分かりません。彼女の戒名の「乾福寺殿」は建福寺にちなむものです。
ちなみに信玄正室である三条の方は京の出身ですが、実家のある京には葬られず、甲府に埋葬されています。諏訪御料人が諏訪に葬られたのは息子の勝頼の意向もあるようですが、諏訪御料人自身、甲府で生活しながらも諏訪の地を忘れがたく思っていたのかもしれませんね。