源頼朝と北条政子の間に生まれた子供たちはことごとく不幸に見舞われました。
長男頼家は北条氏との対立の末、自身の子と妻を殺され、最終的に自分自身も死に追いやられました。
長女大姫は、婚約者であった木曽義高の非業の死から立ち直ることが出来ず、気を病んだまま衰弱死します。
次男実朝は、北条氏に実権を半ば奪われた状態で和歌に熱狂し、最終的に甥の公暁によって斬首されることとなります。
兄弟姉妹たちが絶望の中その命を終えた中で、比較的平穏に死ぬことが出来たのが、頼朝と政子の次女、乙姫こと三幡です。
兄や姉、弟に比べるとスポットライトのあまり当たらない三幡について調べてみました。
三幡という名前の読み方や意味は?
三幡という名前は「さんまん」と読みます。
しかし、この三幡、という名前は諱のようなもの(いわゆる「字【あざな】」)で、はあまり使われることはなく、もっぱら乙姫(おとひめ、次女を表すときによく使われる通称ですね)と呼ばれていたようです。
三幡、という名前の意味ですが、正確なところは分かりません。
字面だけ見てみるならば、鶴岡八幡宮の祭神でもある武神・八幡神にちなんだものかもしれませんね。
また「幡」自体には戦争の際に使われる「のぼり」という意味などもあるようです。武家の娘らしい名前と言えるでしょう。
三幡と北条氏
三幡は北条政子の次女として生まれました。
三幡は長男頼家と次男実朝の間に生まれた子供で、生まれたときにはすでに両親は鎌倉殿とその御台所という立場にありました。
そういうこともあってか、三幡自身は政子の手元で育てられたというわけでもないようで、どちらかというと乳父である中原親能(「鎌倉殿の13人」のメンバーですね)が、乳母である妻ともども大事に育てていたようです。
そのためか、姉や兄弟に比べるとあまり鎌倉での存在感は大きくはなかったようです。
弟実朝は乳母阿波局が北条氏だったこともあって、北条氏とのかかわりは深かったですが、乙姫は北条氏ともさほどかかわりはなかったみたいですね。
とはいえど、三幡は源頼朝と北条政子の血を引いた娘!ということもあって、大姫亡きあと、大姫にはできなかった重要な役目を頼朝より任せられることとなります。
三幡と後鳥羽天皇
姉大姫には、後鳥羽天皇との結婚話が持ち上がっていました。
頼朝は、かつて平清盛がやったように、天皇家の外戚となり、孫を天皇にする―という野望を実現させたかったのでしょう。
しかし、三幡の入内を待たずして、頼朝は亡くなってしまいます。
ですが、頼朝の遺志を継いだ鎌倉幕府は(兄である頼家や、母政子、あるいは北条氏、坂東武者の意向かもしれませんが)、その後も三幡の入内工作を進めていきます。
当時すでに後鳥羽天皇は退位、後鳥羽上皇として、息子の土御門天皇に皇位を譲っていましたが、上皇の妻として入内させようとしていたようですね。
三幡は当時の後鳥羽上皇の後宮では事実上最高位にあたる「女御」(九条兼実の娘・中宮任子はすでに実家に退出していました)を与えられます。
あとは入内を果たすのみ……でした。
三幡の死因は病気?
故將軍姫君、〈號乙姫君字三幡〉自去比、御病惱、御温氣也頗及危急尼御臺所、諸社、有祈願諸寺、修誦經給亦於御所、被修一字金輪法大法師聖尊、〈號阿野少輔公〉奉仕之
引用:『吾妻鏡』
三幡は頼朝の死後、数カ月して、いきなり病気になります。
数カ月懊悩した三幡のために、京より医薬の大家・丹波時長が鎌倉までやってきますが、最終的に時長は匙を投げて帰京、その4日後の6月30日に短い生涯を終えました。
ちなみにこの丹波時長、もともとは3月ごろに依頼を受けていたにもかかわらずなぜかなかなか鎌倉まで赴こうとせず、最終的に後鳥羽上皇にせかされて5月にようやく下ってきていました。
もしももう少し早かったら、何とかなったかも……。
さて、三幡の死因ですが、一応病死では?とは言われています。
症状としては、「両目が腫れ上がる」というものがあったようです。免疫力がさがっていて結膜炎とかになっていたのか、アレルギーとかでしょうか?
ちなみに、時長が三幡に処方した薬は「朱砂丸」だそうです。
この「朱砂」とは辰砂、もしくは「丹」、いわゆる硫化水銀が使われたものだったみたいです。
今でも漢方などで「朱砂安神丸」といった薬は使われているので、おそらくさほど毒性は高くないでしょうが……もしかしたら?
例えば、頼朝ともかかわりのあった土御門通親。彼は義理の娘を後鳥羽上皇の後宮に入れ、土御門天皇の義理の祖父となり権力を握っていました。
もしもそこに頼朝の娘が入内して、さらに男子を産んだら?通親からすれば、三幡の入内はなんとしても避けたいものだったでしょう。
時長にいろいろ言い含めて何かした……というのはさすがに考えすぎでしょうか。
もしくは、京と深くかかわることを嫌った坂東武者たちが暗躍した……というのもあながち、ありえないことでもないかもしれません。
姫君〈三幡、〉遷化〈御年十四、〉尼御臺所、御歎息、諸人傷嗟、不遑記乳母夫、掃部頭親能、遂出家宣豪法橋、
引用:『吾妻鏡』
いずれにせよ、三幡の死は鎌倉殿が天皇の外戚になるという野望を打ち砕かれる出来事となりました。
もしも三幡が生きていたとしたら、承久の乱は起きなかった可能性が高いでしょう。
その意味では、三幡の死は天皇家の運命をも変えてしまったのです。