古代日本において、冠位十二階や十七条憲法、遣隋使派遣など多大な業績を残したことで知られる聖徳太子こと厩戸皇子。
聖徳太子の子孫は一般的には滅亡したと言われていますが、実際どうなのでしょうか。
いろいろ考察してみました。
聖徳太子の子たちはほぼ全員山背大兄王の変で死亡した可能性が高い
聖徳太子は4人の妻を持ち、そのうち3人との間に14人の子を儲けました。
推古天皇の娘にあたる菟道貝蛸皇女との間には子供はいませんでした。
推古天皇の孫娘(尾張皇子の娘)であり、事実上継室のような立場であったと思われる橘大郎女との間には、白髪部王、手島女王の2人を儲けました。
蘇我馬子の娘の刀自古郎女との間には山背大兄王、財王、日置王、片岡女王の4人の子がいます。
最も寵愛を受けた妃では?とも言われ、聖徳太子と1日違いで亡くなったとも伝わる膳臣の娘膳大郎女との間には、泊瀬王、三枝王、伊止志古王、麻呂古王、舂米女王、久波太女王、波止利女王、馬屋古女王の8人の子を儲けています。
この子供たちは山背大兄王の変以前に亡くなっていた泊瀬王を除いて、山背大兄王の変において、山背大兄王ともども死に追いやられた人々の中に名前を連ねています。
癸卯年十一月十一日丙戌亥時 宗我大臣并林臣入鹿 致奴王子兒名輕王 巨勢德太古臣 大臣大伴馬甘連公 中臣鹽屋枚夫等六人 發惡逆至計太子子孫 男女廿三王無罪被害 (今見計名有廿五王)山代大兄王蘇、殖栗王、茨田王、乎末呂王、菅手古女王 舂米女王膳 近代王 桑田女王 礒部女王 三枝末呂古王膳 財王蘇 日置王蘇 片岳女王蘇 白髪部王橘 手嶋女王橘 難波王 末呂古王膳 弓削王 佐保女王 佐々王 三嶋女王 甲可王 尾張王 于時王等皆入山中 經六箇日 辛卯辰時 弓削王在斑鳩寺 大狛法師手殺此王
引用:『聖徳太子伝補闕記』
※殖栗王、茨田王はおそらく聖徳太子の同母弟である殖栗皇子、茨田皇子のことか。
乎末呂王、菅手古女王、近代王、礒部女王については不明。波止利女王、馬屋古女王、伊止志古王、麻呂古王あたりのいずれかの別名、もしくは誤記の可能性が高い?
乎末呂王、菅手古女王については、麻呂子皇子(当麻皇子)、酢香手姫皇女(聖徳太子の異母弟妹)の可能性もあり?
ただこのうち、片岡女王(山背大兄王の同母妹)については、実は山背大兄王の変を生き延び、法隆寺再建に立ち会ったとする説もあります。
というのも、『法隆寺資財帳』内にて、金泥銅灌頂幡を寄進したと記載がある「片岡御祖命」が片岡女王のことでは?という説があるのです。
聖徳太子の孫世代は残っている可能性あり
聖徳太子の孫世代のうち、山背大兄王と、その妻である舂米女王(異母兄妹で結婚していたようです)の子は全員殺害されてしまったようです。
二人の間に生まれた、難波麻呂古王、麻呂古王、弓削王、佐々(佐保?)女王、三嶋女王、甲可王、尾治(=尾張)王の6人はいずれも山背大兄王の変で父ともども亡くなった人々の中に名前を連ねています。
このうち、弓削王は一度は逃げたようですが、のちに狛大法師によって殺害されてしまったようです。
しかし、聖徳太子の14人に及ぶ子供たちのうち、結婚していたのがこの2人だけというはずがありません。
長谷部王 娶姨佐富女王生兒。葛城王、多智奴女王 二王也
引用:『上宮記』
山背大兄王の変以前に病没していた泊瀬王は、叔母にあたる佐富女王(聖徳太子の異父妹、田目皇子と穴穂部間人皇女の娘)との間に葛城王・多智奴女王の二人を儲けていたことが分かっています。
この二人に該当しそうな人物は、『聖徳太子伝補闕記』内における山背大兄王の変に連座して死亡した人々の中にはいません。
幼児死亡率の高い時代でありますから、この二人がともに幼児のうちに死亡した可能性もありますが、生き延びた可能性も少なくはないでしょう。
父の泊瀬王はすでに死亡していたのなら、山背大兄王の近くではなく、母方の佐富女王の手元で育っていたでしょうから、山背大兄王の変に巻き込まれなかった可能性が高いです。
ちなみに葛城王、多智奴女王の事績は分かりませんが、実は面白い話があります。
というのも、天智天皇こと中大兄皇子の別名が「葛城皇子」であること、中大兄皇子の母・斉明天皇(皇極天皇)とその弟である孝徳天皇の父が茅渟(ちぬ)王であることから、この二人こそが中大兄皇子とその同母妹である孝徳天皇皇后・間人皇女(くしくも聖徳太子の母・穴穂部間人皇女に名前が似ていますね)に比定する説があるのです。
さすがにそこまでは飛躍しすぎでしょうが……。もしも本当だったとしたら、現代にいたるまで皇室に聖徳太子の血が流れていることになりますね。
聖徳太子の子孫はいるかもしれない
聖徳太子の子孫のうち、山背大兄王とその妻である舂米女王の血筋は断絶したようですが、泊瀬王などの血筋は現代まで続いている可能性があります。
また、片岡女王は、聖徳太子の子供の中では、唯一山背大兄王の変後も生きていた可能性があります。
以上のことから考えても、聖徳太子の子孫は皆殺しにされ、断絶しているとまで言い切れないのではないでしょうか。
しかし、なぜか現代にいたるまで、聖徳太子の子孫だと表明している人物はまったくいないです。
例えば聖徳太子の同母弟である用明天皇皇子・来目皇子の子孫は、奈良時代に公卿になっていることがわかりますが(山村王など)、なぜかその時代であっても、聖徳太子の末裔だと名乗っている皇族はいないようです。
聖徳太子は朝廷から遠く離れた斑鳩の地に住んでいましたが、これは実は失脚していたからでは?という説もあるようです。
聖徳太子の死にも謎が多く、妃の一人であった膳大郎女と同日、もしくはわずか1日違いで亡くなっていることから、病死説だけでなく、自害したという説もあるそうです。
もしも聖徳太子の子孫がわずかでも残されているとしたら、なぜ彼らはその生まれを隠したのでしょうか。それには聖徳太子、そして山背大兄王の死などにまつわる多くの謎が関わっているのかもしれませんね。