推古天皇の子孫はいるのか?日本初の女帝・推古天皇の子孫について調べてみた

古代史(日本史)

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日本には、8人の女帝(女性天皇)が存在しました。

女帝の第一号として名高いのが、聖徳太子を摂政としたことでも知られる推古天皇ですね。

推古天皇はもともとは欽明天皇の皇女・額田部皇女として生まれ、異母兄の敏達天皇の皇后となった女性でした。

敏達天皇の死後は敏達天皇の異母弟たちが相次いで皇位継承したものの、病魔や蘇我氏との軋轢による暗殺などで皆倒れ、結果的に蘇我氏と縁深い推古天皇が即位することとなったのです。

聖徳太子を摂政として、およそ30年余りにわたって天皇位にあり続けた女傑・推古天皇ですが、実は現在の天皇家は、推古天皇の直系子孫ではありません。

推古天皇の子孫には、いったい誰がいるのでしょうか。気になったので調べてみました。

推古天皇の子供は7人もしくは8人

詔立豐御食炊屋姬尊、爲皇后。是生二男五女、其一曰菟道貝鮹皇女更名、菟道磯津貝皇女也、是嫁於東宮聖德、其二曰竹田皇子、其三曰小墾田皇女、是嫁於彥人大兄皇子、其四曰鸕鷀守皇女更名、輕守皇女、其五曰尾張皇子、其六曰田眼皇女、是嫁於息長足日廣額天皇、其七曰櫻井弓張皇女。

引用:『日本書紀』

沼名倉太玉敷命、坐他田宮、治天下壹拾肆歲也。此天皇、娶庶妹豐御食炊屋比賣命、生御子、靜貝王・亦名貝鮹王、次竹田王・亦名小貝王、次小治田王、次葛城王、次宇毛理王、次小張王、次多米王、次櫻井玄王。八柱。

引用:『古事記』

推古天皇は即位前の皇后時代に、敏達天皇との間に2男5女、もしくは3男5女の、7人ないしは8人の子を産んでいます。

推古天皇の子供たち一人一人にフォーカスして、彼ら彼女らの子孫を調べてみましょう。

推古天皇の長男:竹田皇子

推古天皇の長男・竹田皇子は、敏達天皇と皇后・額田部皇女との間に生まれた有力な皇位継承者候補でした。

敏達天皇の前妻(額田部皇女の前の皇后)・広姫の産んだ押坂彦人大兄皇子がいなければ、スムーズに父の後を継いだ可能性も高かったでしょう。

しかし、竹田皇子はついぞ天皇になることはありませんでした。

秋七月、蘇我馬子宿禰大臣、勸諸皇子與群臣、謀滅物部守屋大連。泊瀬部皇子・竹田皇子・廐戸皇子・難波皇子・春日皇子・蘇我馬子宿禰大臣・紀男麻呂宿禰・巨勢臣比良夫・膳臣賀拕夫・葛城臣烏那羅、倶率軍旅、進討大連。

引用:『日本書紀』

竹田皇子の記録が最後に残されたのは、蘇我氏らによって物部守屋が滅ぼされた時のことでした。

彼はこの戦の参戦者として、叔父の泊瀬部皇子(後の崇峻天皇)、聖徳太子らとともに名前が残されています。

一説にはこの戦で戦死したとも、またこの後に早世したともいいます。

天皇遺詔於群臣曰「比年五穀不登、百姓大飢。其爲朕興陵以勿厚葬、便宜葬于竹田皇子之陵。」壬辰、葬竹田皇子之陵。

引用:『日本書紀』

いずれにせよ、彼は推古天皇に先立って亡くなっていました。

推古天皇は亡くなったときに、息子・竹田皇子の墓にともに埋葬されることを望んだといいます。母親からも非常に愛されていたのでしょうね。

彼の子孫は伝わっていません。成人する前に亡くなっていた可能性も高いため、おそらく子孫自体がいないのでしょう。

推古天皇の次男?:葛城王

『古事記』にのみ名前が出てくる皇子です。ただ古事記では男女問わず「王」と記録されているため、実際は女王の可能性もあります。

他の兄弟姉妹たちは『日本書紀』に名前が残されているにもかかわらず、葛城王のみ名前が出てこないため、実在していない、早世した、もしくは他の皇族と記録が混同されている可能性も高いです。

当然ながら子孫については知られていません。

推古天皇の次男?三男?:尾張皇子

推古天皇の息子の中で、おそらく唯一成長したと考えられるのが尾張皇子です。

敏達天皇、推古天皇と両親ともに天皇である尾張皇子は、聖徳太子と並び立ちうるほど有力な皇位継承者候補であったはずですが、彼の事績は『日本書紀』等にも残っていません。

尾張皇子に何人子供がいたのかは不明ですが、娘に聖徳太子の晩年の妃・橘大郎女(位奈部橘王)がいたことはわかっています。

橘大郎女は聖徳太子との間に白髪部王、手嶋女王の1男1女を儲けていますが、この2人は後に山背大兄王の変で異母兄弟姉妹ともども自害して果てました。

おそらく橘大郎女の血筋はここで途絶えたことでしょう。

尾張皇子に他に子供がいたかどうかは分かりません。

ただ、もしも他に娘などがいたのならば、尾張皇子の姉妹・田眼皇女の死後に舒明天皇の後宮に入る、もしくは山背大兄王などの有力皇族の妻になっているなどしているでしょう。(田眼皇女死後、舒明天皇の後妻となったのは推古天皇の大姪にあたる財皇女でした。)

また男子がいたとしたのなら、その男子も有力な皇位継承者候補として名前を残しているはずです。

そう考えると、尾張皇子の子孫もまた、途絶えた可能性があります。

推古天皇の長女:菟道貝蛸皇女

推古天皇の長女・菟道貝蛸皇女は聖徳太子の妃となりましたが、子供を産むことなく早世したと言われています。

聖徳太子が推古天皇の摂政となったのも、聖徳太子が推古天皇の娘婿だったということが影響しているのでしょうね。

ちなみに、菟道貝蛸皇女の異母姉(敏達天皇の前妻・広姫の娘)もまた「菟道磯津貝皇女」と非常に名前が似ています。(菟道貝蛸皇女の別名も「菟道磯津貝皇女」だと伝わっています)

この異母姉・菟道磯津貝皇女は伊勢斎宮でしたが、池辺皇子(聖徳太子の父・用明天皇のことだとも)との密通事件により斎宮を解任されたといいます。

非常によく似た名前の異母姉が、義理の父親の恋人だった……というのが本当なら、なんというか古代天皇家のドロドロ具合を感じさせますね。

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推古天皇の次女:小墾田皇女

推古天皇の次女・小墾田皇女は、異母兄(敏達天皇と前妻・広姫との間の子)押坂彦人大兄皇子に嫁いでいます。

おそらく押坂彦人大兄皇子の正妻だったのではないでしょうか?

彼女が押坂彦人大兄皇子との間に子供を産んだかは記録に残っていません。

押坂彦人大兄皇子の息子・田村皇子は舒明天皇となりますが、彼は小墾田皇女の異母妹・糠手姫皇女(敏達天皇と側室・春日老女子夫人との間の娘)の所生です。

もしも小墾田皇女との間に子供(男子)がいれば、その子が押坂彦人大兄皇子の後継者、そして天皇になりそうですが……。

もしかしたら小墾田皇女もまた、姉同様に子供を産むことなく亡くなってしまったのかもしれませんね。

推古天皇の三女?:鸕鶿守皇女

彼女のみ、他の姉妹たちと異なり、結婚相手の記録が残っていません。もしかしたら、結婚できる年齢になる前に幼くして亡くなってしまったのかもしれませんね。

推古天皇の四女?五女?:桜井弓張皇女

桜井弓張皇女は、推古天皇の子孫を残した可能性が高い皇女でもあります。

彼女は異母兄の押坂彦人大兄皇子、後に聖徳太子の弟である来目皇子に嫁いで、それぞれとの間に子供を残しています。

又娶庶妹玄王、生御子、山代王、次笠縫王。二柱。

引用:『古事記』

『古事記』によると、桜井弓張皇女は押坂彦人大兄皇子に嫁ぎ、山代王・笠縫王の2人の子を産んだと伝わります。

押坂彦人大兄皇子の跡を継いだのは桜井弓張皇女の異母姉妹・糠手姫皇女との間の子供である舒明天皇のため、この2人は皇位を継ぐことはなかったようです。

またこの2人の子孫だと名乗る後裔氏族もいないようですから、もしかしたら押坂彦人大兄皇子との間に儲けた2人の子供たちは早世したのかもしれません。

桜井弓張皇女はまた、押坂彦人大兄皇子との結婚より前か後のことか分かりませんが、聖徳太子の弟・来目皇子の正妻だった時があったようです。

彼女は来目皇子との間に、男王、星河女王、佐富王の二男一女を儲けたと『上宮記』などでは伝わります。

来目皇子の子孫として、藤原仲麻呂の乱の際に孝謙上皇側として活動した奈良時代の皇族・山村王が知られています。もしかしたらこの山村王は、桜井弓張皇女の子孫でもあるかもしれませんね。

また来目皇子の生母不明の息子・日田王の子孫として『新撰姓氏録』に名前がある古代氏族・登美真人も、もしかしたら推古天皇・桜井弓張皇女の血をひいている可能性があります。

推古天皇の五女?四女?:田眼皇女

推古天皇の娘の一人・田眼皇女は、甥にあたる田村皇子(押坂彦人大兄皇子と異母姉妹・糠手姫皇女の間の子)に嫁ぎました。

父親・敏達天皇の没年や田村皇子の生年などを考えると、おそらく田眼皇女は田村皇子よりもかなり年上の女性(10歳ほど年上の可能性が高い)だったと思われます。

彼女は田村皇子との間に子供をなすことなく早世したようです。

田村皇子は、自身の姪かつ田眼皇女の従姉妹の子供でもある財皇女と再婚しました。

田村皇子は即位して舒明天皇となった後、財皇女を皇后とし、また財皇女との間に中大兄皇子・大海人皇子らを儲けました。

ちなみに財皇女はのちの斉明天皇・皇極天皇、中大兄皇子は天智天皇、大海人皇子は天武天皇です。

推古天皇の子孫について:まとめ

推古天皇には7人もしくは8人の子供がいましたが、彼ら彼女らの多くは子孫を残すことなく亡くなってしまったようです。

子孫を残した可能性が高いのは、尾張皇子・桜井弓張皇女の2人です。

このうち尾張皇子~橘大郎女の系統は、山背大兄王の変に巻き込まれ断絶しました。

桜井弓張皇女の系統は、もしかしたら後世に続いたかもしれません。例えば奈良時代の皇族・山村王などがその候補にあたるでしょう。

しかし、確実に推古天皇の子孫だと断言できる人物はいないようですね。

推古天皇は聖徳太子の妃だった長女・菟道貝蛸皇女の死後に、自身の孫娘である橘大郎女を新たな妻として結婚させています。

しかし、田村皇子(舒明天皇)の妻であった四女・田眼皇女の死後に田村皇子の妻としたのは、自身の大姪(姪の娘)にあたる財皇女でした。こういったところにも、推古天皇の直系子孫の少なさが反映されているように思われます。

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