花山天皇(師貞親王)の妻(女御)たち

古代史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

2024年に放映されている大河ドラマ『光る君へ』の中で、本郷奏多さん演じる花山天皇のエキセントリックな振る舞いが話題を集めていますね。

劇中では親子(母娘)と関係を結んだことを赤裸々に話したり、女御相手に過激なふるまいをするなど、その女性関係にも触れられていますが、実際のところ花山天皇(師貞親王)の女性関係はどのようなものだったのでしょうか。

花山天皇は様々な女性たちと関係を持ったことがわかっていますが、その中で正式な妻……といえるのは、彼が天皇であった時代に迎えた複数の女御たちということになるでしょう。

気になったので、とりあえず花山天皇が迎えた妻(女御)たちから調べてみました。
(花山天皇の退位後の愛人たちについては、下のリンクからどうぞ)

花山天皇(花山法皇・師貞親王)の愛人たち
花山天皇は出家前、4人の女性を妻(女御)として迎えていました。 しかし出家したことで、この妻たちとは別れることとなります。 とはいえどまだまだ若い花山法皇、僧侶になったとはいえ、女性への関心は捨てきれるものではなく……。 結局花山法皇...

花山天皇の妻(女御)①:藤原忯子(弘徽殿女御・太政大臣藤原為光の次女)

花山天皇最愛の妻……ともいわれるのが、花山天皇出家の原因ともなった女御・藤原忯子(ふじわらのよしこ)でしょう。

彼女は藤原道長のいとこであり、またはんにゃ金田さん演じることでも注目された一条朝四納言の一人・藤原斉信の同母妹でもあります。(平安朝の上流貴族はたいていみんな親戚……ということを改めて感じさせますね。)

父の為光は一時期東宮時代の花山天皇の側近(東宮権大夫)を務めていました。

また、為光の後妻(忯子の義母)が、花山天皇の母方の叔母(藤原伊尹の次女)であることや、花山天皇の叔父である義懐の妻の妹であることなど、様々な縁によってこの入内が決まったのだと思われます。

永観二年十月二十八日、彼女は入内し、後宮の中の、弘徽殿と呼ばれる建物に住みました。

弘徽殿といえば源氏物語の「弘徽殿の女御(弘徽殿の大后)」が想定されるように、平安朝の後宮のなかでは家柄の有力な女性が入ることで知られる殿舎でした。

忯子がかなり有力な女御であったことがわかりますね。

とはいえど、彼女以外にも花山天皇には多くの女性が入内しており、ライバルも多い状態でした。

が、そんな中で忯子は寵愛を確かなものにして、ついには妊娠までしました。

ここで無事男皇子を生むことができれば、彼女の運命は大きく変わっていたことでしょう……。

午時許弘徽殿女御(藤原忯子)卒云々、〈藤大納言為光朝臣女、〉

引用:『小右記』

しかし、彼女は子供を身ごもったまま、急に亡くなってしまいます。

彼女の死に落胆した花山天皇は、急に仏事に関心を向けるようになり、そこにつけ込まれることとなるのですが……。

ちなみに花山天皇は、出家後にも彼女の異母妹と関係を持つなどしています。

忯子に対する特別な感情はかなり後々まで尾を引いたようですね。

花山天皇の妻(女御)②:婉子女王(為平親王長女)

忯子の死(寛和元年七月十八日)から半年ほど後の寛和元年十二月に、後宮に入ったのが為平親王の娘であった婉子女王でした。

婉子女王の父・為平親王は花山天皇の父である冷泉天皇の同母弟で、さらに円融天皇の同母兄、という非常に皇位に近い立場でありました。

しかし、妻に藤原氏の女性ではなく、源高明(元皇族で一時期右大臣まで上るも、安和の変で失脚した)の娘と結婚していたため、皇位につくことができませんでした。

為平親王としては、自分は天皇になれなかったけれどせめて天皇の外祖父に……なんて夢を見ていたのかもしれません。

14歳になったばかりの娘を、甥にあたる新帝・花山天皇の後宮に入れたのです。

彼女は一時期、傷心の花山天皇の寵愛を受けますが、ほどなく寵愛は衰えてしまいます。

そうこうしているうちに花山天皇は出家、婉子女王は実家に戻されることとなりました。

実家に戻った婉子女王はまだ10代半ば、そんな彼女たちに、都の貴公子たちが心を寄せ始めるのはある意味当然のことでした。

かつてのライバル・忯子の異母弟である藤原道信なども彼女にたびたび文を送ったそうです。

そして婉子女王争奪戦を制したのは―小野宮右大臣・藤原実資(『光る君へ』でロバート秋山さんが演じているあの人です)でした。

妻を亡くしたばかりであった実資とは、お互い配偶者を失ったもの同士、何か通じるものがあったのかもしれません。

ちなみにこの時フラれた藤原道信は和歌を詠んでいるのですが、その和歌が百人一首に選ばれてしまっています。

明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なほ恨めしき 朝ぼらけかな

引用:『後拾遺和歌集』

結婚まではいろいろとありましたが、実資とは円満な夫婦だったようです。

しかし婉子女王は長徳四年(998)、27歳という若さで早世してしまいます。

彼女の死は実頼に大きな衝撃を与えたようです。

ちょうどそのころ、同じように妻を亡くした藤原為頼(紫式部の叔父)に、実資はこのような和歌を送りました。

よそなれど おなじ心ぞ 通ふべき 誰も思ひの 一つならねば

引用:『為頼朝臣集』

妻を亡くした悲しみ、その重さに耐え忍んでいる姿が思い浮かぶようです。

修諷誦禅林寺、故女御(室婉子女王)忌日、

引用:『小右記』長元元年七月十三日条

彼女の死後30年以上たっても、なおも実資は彼女のために法要を催すなど、その早すぎる死を惜しんだようです。

花山天皇の妻(女御)③:藤原姚子(藤原朝光の長女。一説には「姫子」とも、堀河女御、麗景殿女御)

永観二年十二月、藤原忯子の入内から2か月遅れで入内したのが藤原朝光の娘であった藤原姚子でした。

ちなみに彼女の母方の祖母・藤原登子はその美貌から姉の夫であった村上天皇の寵愛を受け、姉が亡くなったあとは円融天皇の母親代わりを務めた女性でもありました。

姚子もまた、祖母譲りの美貌の持ち主だったかもしれません。

入内からひと月ほどの間、姚子は寵愛を受け姚子の座を脅かしましたが―それはつかの間のことで、すぐに寵愛は衰え、彼女はほどなく宮中を退出し、戻ることはありませんでした。

左大将女御(藤原朝光女姚子、姚一作姫)午時許逝去云々、于時年十九

引用:『小右記』

花山天皇の出家後も誰かに再び嫁ぐことなく父のもとで生活を送り、そのまま19歳にて亡くなっています。

花山天皇の妻(女御)④:藤原諟子(藤原頼忠の四女【三女とも】、承香殿女御)

藤原姚子と同時に、永観二年十二月に女御になったのは時の関白・藤原頼忠の娘であった諟子でした。

従内(花山天皇)有御書、被遣三君(藤原諟子)御許、御使蔵人大舎人助信理(藤原)、

引用:『小右記』

ちなみに諟子の同母姉・遵子は一条天皇の母で藤原道長の姉である藤原詮子を退けて円融天皇の中宮に上がった女性で、さらに同母兄である藤原公任(『光る君へ』では町田啓太さんが演じていますね)は「三船の才」などで知られる当代一の才人としても有名ですね。

そんな華やかな身内に囲まれ、実家の権勢などを考えれば藤原忯子を退けてもおかしくないような諟子でしたが、彼女は結局花山天皇の寵愛を得ることはできませんでした。

とはいえど関白の娘、ということもあってか、花山天皇は彼女を粗略には扱わなかったようです。

花山天皇の出家後は、再婚することなく静かに暮らしたようです。

六月廿一日癸酉伝聞四條宮女御卒去云々

引用:『左経記』

花山天皇の女御たちはほとんど若くして亡くなっていますが、諟子はわりと長生きしており、長元八年(1035)に亡くなっています。

正式な享年はわかりませんが、少なくとも50代ではあったと思われます。

花山天皇の妻(女御)候補の一人:源倫子

花山天皇の妻(女御)たちは上記の四人ですが、花山天皇の在位期間がもっと長ければ、さらに妻(女御)たちは増えていたものと思われます。

そして、もしかしたら増えていたかもしれない妻(女御)候補の一人に、藤原道長正室で、紫式部が使えた中宮彰子の母である源倫子がいます。

『栄花物語』によると、藤原道長の正室である源倫子(左大臣源雅信の娘)は、もともと父親の意向で花山天皇の妻になるところだったといいます。

しかしその話が進む前に花山天皇は退位、新たに天皇となった一条天皇はまだ幼児で倫子とはともすれば親子ほどの年の差……ということもあり、最終的に倫子は藤原道長と結婚することになったのだとか。

ちなみに倫子は花山天皇の4歳上で、花山天皇のほかの妻たちに比べるとおおよそ10歳ほど年上という感じですから、入内がもしも成立していたとしても、寵愛争いではやや不利だったかもしれませんね。

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