戦国三大美少年とは?

中世史(日本史)

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戦国三大美少年……とても魅力的なワードですね。

戦国三大美少年としては、名古屋山三郎、不破万作、浅香庄次郎の3人の名前があげられます。
それぞれどんな人物だったのか、調べてみました。

ちなみに3人とも尾張国の出身です。
織田信長や豊臣秀吉ら当時の有力者が尾張出身だったから、彼らが有名になったのでしょうか。

名古屋山三郎

1572年もしくは1576年生まれ、亡くなったのは江戸時代の1603年です。
血筋は結構良く、父は鎌倉の執権の北条氏の末裔、母は織田氏の血縁とか。
姉妹の数人は織豊政権~江戸時代の大名家に嫁いでいたりします。

彼自身は蒲生氏郷の小姓として仕えていました。
この時蒲生氏郷は美少女だと思って嫁にとるべく彼を調べたとか。
ちなみに美しいだけでなく、戦で一番槍になるなど武勇にも優れていた模様。

氏郷死後は一度出家しました。しかしやっぱり美しかったようで、当時の一大文化人細川幽斎にも「彼が着ていると粗末な服も素晴らしいものに見える」などと絶賛されていました。
男性をもメロメロにしていたんですね。

出家後しばらくしたら還俗し、浪人していました。
そのころに、歌舞伎の創始者出雲阿国と関係があったり、なぜか淀殿との関係もうわさされていたりと女性関係も華やかだったようです。

しかし妹の嫁いだ津山藩森家につかえていたときに、同僚とのいさかいが原因で早世しました。
子供が数人おり、子供の一人名古屋隼人は後に浅香庄次郎と出会ったりしたようです。

不破万作

豊臣秀次の小姓でした。1595年7月、秀次の切腹の際に殉死したといわれています。
切腹し、介錯は主君の秀次が務めたとか。
雪のように白い肌の持ち主だった、いろいろな男が思いを寄せた、などと逸話がのこり、大層美しかったようです。
彼が死ぬ際に使った刀剣「しのぎ藤四郎」は、秀次を死に追いやった豊臣秀吉の手に渡ったそうです。

戦国を代表する悲劇の美少年・不破万作
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浅香庄次郎(浅香左馬之助、水野庄次郎とも)

結構名前や主君がコロコロ変わっていますが、彼自身はこの三人の中で唯一長生きしたといわれています。

はじめ織田信雄の小姓になりました。信雄は彼を非常に愛し、豊臣秀次の要請があっても彼を手放さなかったといいます。しかし、信雄は没落、改易、流罪の身に。
その後木村吉清の小姓となりました。しかし木村氏も、改易されてしまいます。
その後、「松浦左兵衛」と名乗り蒲生氏郷に仕えました。
この際に名古屋山三郎と出会っているとも言われています。

氏郷没後は石田三成に仕えました。
関ケ原の前哨戦の杭瀬川の戦いでは活躍したようです。しかし、石田三成は関ヶ原で敗れ、また主君を失ってしまいました。

その後加賀藩の前田利常に招かれ「浅香庄次郎」と名乗り、二千石で仕えていたとのことです。

森蘭丸は違うの?

戦国三大美少年のくくりは「常山紀談」という戦国時代の逸話を集めた本に由来します。
そこでは森蘭丸は選ばれていません。
森蘭丸が美少年だったかどうかはわかりません。
しかし、父の森可成は「攻めの三左」と呼ばれ、兄の長可は「鬼武蔵」と呼ばれるなど、武勇に優れた一族の出身ですので、他の美少年同様、武勇にも優れていたのではないでしょうか。
ちなみに森蘭丸の弟の忠政は、江戸時代に津山藩主となり、名古屋山三郎の妹と結婚しています。

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