源頼朝の乳母として有名なのは、比企尼でしょう。彼女の一族比企氏は、比企能員など頼朝の寵臣を排出し、北条氏にも匹敵する権勢を誇りました。しかし、頼朝には、比企尼以外にも乳母がいました。
ここでは比企尼含め、頼朝の乳母たちについてご紹介します。
源頼朝の乳母:比企尼
〈號比企尼〉當初爲武衛乳母而永暦元年、御遠行于豆州之時、存忠節餘、以武藏國比企郡、爲請所、相具夫掃部允掃部
引用:『吾妻鏡』
源頼朝の乳母としてもっとも名高いのが比企尼でしょう。
出自、本名ともに不詳ですが、比企掃部允に嫁いだことから「比企尼」と呼ばれます。
彼女の養子・比企能員は頼朝の寵臣となり、さらに頼朝の子・二代将軍頼家の岳父ともなって権勢を振るいました。
比企尼はもともと京で暮らしていましたが、頼朝は伊豆に流罪になった後、夫の比企掃部允ともども武蔵国比企郡の所領に下り、頼朝に約20年!仕送りをしたといいます。
罪人の乳母となってしまい、見捨ててしまってもおかしくないのに、彼女は忠誠を尽くし続けたのですね。
比企尼には3人の娘(丹後内侍【丹後局】、河越尼、比企尼三女)がおり、また北条義時正室姫の前の父・比企朝宗も一説には比企尼の子だと言われています。(比企掃部允死亡時に幼く、家督を継げなかったのでは?という説があります。)
頼朝も比企尼を重用したようです。
比企能員の出世(二代将軍頼家の乳父となる)はもちろん、異母兄弟の源義経、源範頼らの妻に比企尼の孫娘(河越尼の娘郷御前、丹後内侍の娘)らを迎えさせ、さらに河越尼、比企尼三女は頼家の乳母としています。
比企尼がいつごろ亡くなったのかは分かりませんが、おそらく養子・比企能員の死とそれにともなう比企一族の滅亡は見ることはなかったことだと思われます。
比企尼の子孫はその後も武家社会で重んじられ、その血をつないでいきました。
特に比企尼の長女・丹後内侍の子である島津忠久は薩摩藩島津家の祖となり、その血筋は現在の天皇家へも繋がっています。
源頼朝の乳母:寒河尼(網戸尼)
兼日依受命、爲御迎參向〈云云〉今日武衛御乳女、 故八田武者宗綱息女、〈小山下野大拯政光妻、号寒河尼〉相具鐘愛末子、參向隅田宿則召御前令談往事給以彼子息、可令致眤近奉公之由、望申仍召出之、自加首服給
引用:『吾妻鏡』
寒河尼は常陸の武士・八田宗綱の娘で、一説には「鎌倉殿の13人」のメンバーの一人、八田知家の姉妹。
下野国の豪族・小山政光の後妻で、江戸時代初期まで名前を残した下野結城氏の祖・結城朝光の母親です。
もともと京都で暮らしており、近衛天皇の女官として内裏に勤めていたこともあったそうです。
もしかしたら、頼朝の母・由良御前(近衛天皇の異母姉・上西門院女房)とは女官時代に何らかの面識があったのかもしれないですね。
頼朝とは9歳違いのため、実際に乳をやる乳母ではなく、教育係的な乳母だったと推察されます。
当時の乳母は時には性教育的なこともやっていたとか言われていますから(同時代の高倉天皇は乳母とも言われている女官・帥局と子をなしています)もしかしたら頼朝ともなんらかの関係があったの、かも……?
ちなみに『朝光公記』では、結城朝光は頼朝と寒河尼の娘との庶子と言うことになったりしています。
京で女官生活を送った後に、下野に下り、小山政光の後妻となりました。
頼朝挙兵時、夫の政光が京都大番役で不在であったため、夫に代わって小山氏は頼朝に与することを決定しました。その際に自らの子である朝光の烏帽子親を頼朝に依頼していたりもします。
かなり政治力があって、強い女性だったのかもしれませんね。
彼女は頼朝の死後も長く生き、承久の乱後、安貞二年(1228)まで長生きしました。
源頼朝の乳母:山内尼
相模国の山内首藤俊通の妻で、子には山内首藤経俊、そしておそらく山内首藤俊綱、刑部房俊秀がいます。
山内首藤氏は河内源氏に忠実な一族であり、頼朝祖父・源為義の乳父には山内首藤資通がついています。
山内尼が頼朝の乳母に選ばれたのも、嫁ぎ先の山内首藤氏の縁でしょう。
山内尼の夫・俊通と子・俊綱は源義朝と運命を共にし、平治の乱で散りました。
子の経俊は父や兄のこともあったためか、頼朝の挙兵時に頼朝に従いませんでした。(彼の兄弟の一人、刑部房俊秀はこれ以前に以仁王の乱で源頼政らとともに挙兵し、討ち死にしています。)
さらに石橋山の戦いで頼朝に矢を射かけるなどしたため、頼朝の勢力拡大後に所領の山内荘を取り上げられたうえ、一度死罪に処されかけます。この際、山内尼は頼朝に助命嘆願を試みたといいます。
結果的に山内尼は助命嘆願を取りやめますが、最終的に経俊は許され、伊勢・伊賀国の守護となりました。
のちに三日平氏の乱での反乱鎮圧の失敗により、経俊は守護職を解任されますが、彼自身は相次ぐ政争に巻き込まれることなく、承久の乱後の嘉禄元年まで長生きしました。
源頼朝の乳母?:摩々尼
武衛御誕生之初、被召于御乳付之青女、〈今日者尼、號摩摩〉住國相摸早河庄、依召于御憐愍故 彼屋敷田畠、不可有相違之由、被仰含惣領地頭〈云云〉
引用:『吾妻鏡』
源頼朝の父・義朝の乳母に「摩々局」という女性がいました。彼女の娘であると伝わるのが、摩々尼です。
摩々尼については母とされる摩々局と同一人物、また山内尼と同一人物説もありますが、ここでは別人として説明していきます。
摩々尼は頼朝に初めて乳を含ませた女性で、母の摩々局から相模国早河荘を受け継ぎ、そこで生活していたことが分かっています。
早河荘は土肥郷とも呼ばれ、土肥実平・遠平ら土肥氏(坂東平氏中村氏)と関係が深いことで知られています。摩々尼はもしかしたら土肥氏の縁者だったのかもしれませんね。
源頼朝の乳母?:三善康信の伯母(大中臣氏?)
詳細は不明。一説には比企尼・寒河尼・山内尼の誰かの可能性もあるとのことです。
三善康信の父と言われる三善康光の妻には、大中臣倫兼の娘がいたと伝わるので、もしもこの女性が康信の実母なら康信の伯母も大中臣氏の女性(大中臣倫兼の女)となります。
比企尼、寒河尼は京で生活していたこともあったようですから、その妹が今日の下級公家である三善家に嫁いでいてもまったくおかしくはないですね。
また、比企尼、山内尼は出自が不明なので、大中臣氏出身であるかもしれません。こう考えると可能性としては比企尼が一番合致しそうですね。
三善康信はこの伯母の縁で、頼朝に月に3度も京の情勢を知らせるなどしていました。
のちに康信は初代問注所執事となり、鎌倉幕府の裁判実務に従事することとなります。さらに「鎌倉殿の13人」のメンバーにも名を連ねました。
源頼朝の乳母?:義勝法橋盛尋(中条兼綱)の妹(近衛局)
義勝法橋盛尋(中条兼綱)の妹で、「近衛局」と称した女性も、源頼朝の乳母だったという説があります。
近衛局は、八田知家の妻だったといいます。
近衛局の甥にあたる中条家長は八田知家の養子となり、その子孫は中条氏を称し室町幕府家臣となったり、小田原の後北条氏の家臣となったりしています。