頼朝の忠実な郎党・加藤景廉とその子孫について

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

源頼朝挙兵の端緒の動きとなったのが、頼朝による山木館の襲撃です。

その際に、山木兼隆を討ち取り、「殊更きりもなき剛の者、そばひらみずの猪武者」と、『源平盛衰記』にてたたえられたのが、加藤景廉です。

その後も頼朝に従い続け、頼朝死後は北条義時の命に従って比企能員の変の際に比企能員の嫡男を討ち取るなど、その武勇で名前を残している加藤景廉について調べてみました。

加藤景廉の名前の読みは「かげかど」

加藤景廉、という名前は一瞬どのように読めばいいのかよく分かりませんよね。

一般的には、この名前は「かげかど」と読みます。

ちなみに同時代の史料では、あまり諱の「景廉」は記されず、加藤景員の次男であることから、もっぱら「加藤次」と表記されることが多いようです。

加藤景廉は伊勢国から伊豆国に土着した武士

加藤景廉の先祖は、もともと伊勢国下部田あたりに勢力を持っていた武士でした。

しかし伊勢国と言えば、平清盛らに代表される伊勢平氏の文字通りの本拠地でもあったため、いつのころからか伊勢を出て、伊豆国に土着したようです。

加藤景廉は父・加藤景員とともに、伊豆国に土着した後、伊豆諸島にて頼朝の叔父である源為朝の征伐にも参加したといいます。

その際に、景廉は自害した為朝の首をはねたといいます。この時はあくまでも平家方に従順にふるまっていたようです。

しかし、治承四年(1180)、源頼朝が挙兵します。もともと伊勢国から追い出されたのも平家の隆盛あってのこと、景廉は、父景員、兄光員ともども頼朝のもとにはせ参じました。

加藤景廉の武勇伝~山木兼隆を討ち取る~

山木(平)兼隆 源頼朝になれなかった男
源頼朝の踏み出した第一歩、石橋山の戦いは頼朝の敗北に終わりますが、実は石橋山の戦いの前に、頼朝はある武士を襲撃し、勝利しています。その武士の名前は山木兼隆、『曽我物語』などの創作物では、「政子の本来の婚約者」だと紹介されることもある男です。...

源頼朝が目指したのは、伊豆国内で伊東氏と組み、急激に勢力を伸ばしていた伊豆国目代・山木兼隆です。

夜陰に紛れての山木館の襲撃に成功した後、景廉は頼朝の軍勢相手に奮戦する山木兼隆に近寄り、その首を討ち取りました。

頼朝は山木兼隆を討ち取らんとする景廉に、手ずから長刀を与えたといいます。景廉に対する信頼の篤さがうかがえますね。

加藤景廉の武勇伝~鉢田の戦い~

石橋山の戦いでの敗戦後は、景廉は甲斐国にのがれます。そこで甲斐源氏・武田氏の知己を得て、武田信義、武田信光、そして北条時政らとともに鉢田の戦いに挑みます。

この戦いで、加藤景廉は駿河国目代・橘遠茂を捕虜にしたとも、討ち取ったとも言われています。

この戦いでは、橘遠茂の子息二名と、同じく駿河国目代であった長田入道が討ち取られていますので、もしかしたら彼らの死にも加藤景廉は関わっているかもしれませんね。

加藤景廉の武勇伝~源頼朝・源範頼に付き従う~

加藤景廉はその後も忠実に源氏に仕え続けました。

平家征伐では、源頼朝の異母弟・範頼の部下として、瀬戸内海にも従軍しています。さらに、頼朝による奥州征伐にも付き従い、武功を上げました。

頼朝が鎌倉殿として天下に名をとどろかせた後も、頼朝の配下として、頼朝の死まで頼朝に忠実に仕え続けました。建久四年(1193)には、頼朝の命で安田資定を誅しています。

加藤景廉の武勇伝~比企能員の変~

建久十年(1199)、頼朝が死去します。その後1年足らずで、梶原景時の変が起こりました。

景廉は景時と親しかったため、連座して所領の一部を没収されることとなります。この際の景廉の心境は分かりません。

ただ、景廉は、敬愛する頼朝の子息・頼家ではなく、北条義時ら北条氏のもとで働くことを選んだようです。

建仁三年(1203)、比企能員の変の際には、北条義時の命で仁田忠常と比企能員の嫡男・余一郎兵衛尉を殺害しました。

その後、彼は三代目将軍・源実朝の評定衆となります。実朝の鶴岡八幡宮参詣の際には警備責任者の立場にありましたが、実朝は公暁によって暗殺されてしまいます。誰も彼を咎めることはありませんでしたが、景廉は出家します。

その後も景廉は、生き続け、承久の乱の際には幕府方の宿老として鎌倉防衛に勤めますが、同年に亡くなりました。

承久の乱で兄光員が京方となってしまい、敵味方に別れてしまったことがもしかしたら心労をもたらしたのかもしれません。

加藤景廉は武勇に優れていたが病弱だった(そしてもしかしたら下戸)

さて「猪武者」とも称され、数々の武将を討ち取ってきた加藤景廉ですが、実は病弱、そして下戸かもしれないという謎のギャップ持ちでもあります。

寿永元年(1182)には、ある御家人の館で飲みすぎて意識を失い、佐々木盛綱に担ぎ出されて家まで運ばれたという話があります。(ちなみに心配した頼朝が翌日お見舞いに行ったりしています。頼朝こういうところある。)

さらに元暦二年(1185)、いよいよ平氏を追い詰めたところで景廉は病魔に倒れました。

景廉はそのことを隠して源範頼ひきいる平家征伐軍の船に乗り込みますが、見かねた父・景員によって頼朝に密告されてしまいます。

その結果、頼朝が景廉の上司であった範頼に「景廉は療養させて、療養が終わったらすぐに鎌倉に返してくれ」と親書を出すという事態にまでなってしまいました。

加藤景廉と遠山荘・岩村城

美濃国恵那郡遠山庄事 右為勲功之賞遠山加藤次景廉所充行也者 早令領知可被専所務之状如件 建久六乙卯年三月三日

引用:『遠山文書・源頼朝充行下文写』

加藤景廉は遠江国、伊豆国、備前国など日本東西にわたる広い範囲に領地を与えられています。その中で、加藤景廉の子孫にも伝わった領地が美濃国の遠山荘です。

加藤景廉は建久六年(1196)に、確実にこの所領の領有権を頼朝より認められています。(一説には文治元年【1185】にはすでに認められていたとも)

遠山荘の中心は岩村で、景廉の長男・景朝によって岩村城が築かれることになります。

岩村城は当初は城というよりは館といった趣だったそうですが、戦国時代には周辺との領地争いの激化もあり、山城になりました。このころには岩村城は霧がよく発生することから「霧ヶ城」と呼ばれることもあったようです。

岩村城は代々、加藤景廉の子孫・遠山氏が城主を務めていました。

しかし、最後の城主・遠山景任が子供なく没すると、その妻で織田信長の叔母であったおつやの方が事実上の城主になります。

彼女は甥信長によって苛烈な運命を与えられますが、この話はまた別の機会に。

加藤景廉の子孫は遠山氏と賤ケ岳の七本槍・加藤嘉明?

加藤景廉の長男・景朝は、景廉の所領・遠山荘を名字として「遠山」を名乗ります。

彼の子孫遠山氏は美濃国に勢力を築き、様々に分家して岩村遠山氏・苗木遠山氏・明知遠山氏・飯羽間遠山氏などとなりました。

そのうちでも、苗木遠山氏は、飯羽間遠山氏から養子を迎えながらも存続し、苗木藩1万石の大名となりました。

「遠山の金さん」こと江戸時代の町奉行・遠山景元は、旗本となった明知遠山氏の出身ですが、父親が永井氏からの養子のため、家の系譜では繋がっていますが、血筋の上では景廉の子孫ではないようですね。

また、加藤清正と比べて「地味な方な加藤」とか言われてしまいがちな、賤ケ岳の七本槍の一人で、伊予松山藩・陸奥会津藩初代藩主の加藤嘉明は、一説には加藤景廉の子孫と言われています。

もしも加藤嘉明が加藤景廉の子孫なら、景廉の血筋は尼崎藩主(のちに美濃・郡上藩主)青山氏、丹波笹山藩青山氏に、女系(加藤嘉明の孫娘)を通して続いていることになります。

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