三浦義澄の妻と子たち

中世史(日本史)

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、佐藤B作さんが演じることになっている「鎌倉殿の13人」こと十三人の合議制のメンバー・三浦義澄。

相模国の豪族で、平治の乱でも源義平に従い、頼朝挙兵時にも参陣しようとするなど、源氏とも昵懇の間柄でした。

そんな三浦義澄の妻と子について調べてみました。

三浦義澄の正室:伊東祐親の娘(伊東祐親の次女?)

三浦義澄の正室は伊東祐親の次女だと言われています。(伊東祐親の長女は北条時政前室、三女が八重姫【伝源頼朝前室】、四女が工藤祐経→土肥遠平質室・万劫御前)

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三浦義澄は、後に正室の父・伊東祐親が頼朝に敵対し、とらえられた時にその助命嘆願を行っています。(最終的に伊東祐親は頼朝に許されるのですが、過去の行い【詳細は不明ですが、八重姫との子千鶴丸を殺したことだとも……】を恥じて自害しています。)

三浦義澄は正室・伊東祐親次女との間に、幕府の重臣として暗躍した嫡男・三浦義村を儲けています。

また、承久の乱で朝廷側(京方)についた三浦胤義も、彼女の所生の可能性があります。(義村とは生年が離れているので、側室の所生の可能性もありますが……。)

三浦義澄に側室はいたのか?

三浦義澄の側室は、公的には記録に残っていません。ただ、義澄には少なくとも5人の男子(一説には9人、10人)、さらに少なくとも2人の娘がいたことなどを考えると、正室だけが子供を産んだとも考え難いように思います。

また、嫡男である三浦義村はおそらく仁安三年(1168)頃の生まれ、九男とも言われる三浦胤義は梶原景時の征伐に参加していないことから、1185年ころの生まれと考えられるなど、子供たちの年齢にも幅が見られます。

おそらく、三浦義澄には記録に残されていないが子供を産んだ側室がいたのでしょう。

三浦義澄の息子たち

三浦義澄には5人(一説には10人)の息子がいたとされています。ただその息子たち全員の名前を調べることはできず……。分かっている範囲で名前を記していきます。

三浦義澄の嫡男:三浦義村

義村八難六奇之謀略、不可思議者歟

引用:『明月記』

三浦義澄の次男(長男?)で、三浦義澄の後継者(嫡男)となりました。(三浦義澄の長子の名前は三戸友澄とも、大河戸重澄とも言われていますがよく分かっていません。)

通称は平六であったようです。

三浦義村は源範頼を総大将とする平家追討に参加するなどしていましたが、本格的に活躍し始めるのは頼朝死後の幕府内の動乱です。

梶原氏、畠山氏、和田氏など「鎌倉殿の13人」にも名を連ねるような幕府の重臣たちが次々粛清、族滅に追いやられていく中、彼はそれに関わりつつも、北条氏に敵対することを上手に避けていきます。

最終的に彼は、三浦一族を北条氏に並びうるほどの強力な一族に仕立て上げることに成功しました。また、公暁による実朝暗殺の黒幕とも言われるほどです。

しかし、彼は表立っては北条氏に敵対することなく、上手に協調し幕府運営にかかわっていきました。

義村の死後、義村の子・泰村など三浦一族は宝治合戦で族滅に追いやられることとなりますが、義村の娘・矢部禅尼を通して義村の血は佐介流三浦家、北条得宗家に受け継がれていきました。

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三浦義澄の次男?:山口有綱

三浦義澄の次男(義村が次男であった場合、三男などである可能性がありますが……)だと伝わります。彼は相模国三浦郡山口のあたりに勢力を持っていました。

『吾妻鏡』によると、源頼朝の上洛に付き従ったこともあるようです。

三浦義澄の息子:大河戸重澄(三浦重澄)

正治二年閏二月小八日甲午。晴。羽林狩獵の爲、伊豆國藍澤原に渡御す。

北條五郎時連、 三浦十郎義連、 和田平太胤長、 長沼五郎宗政、 結城七郎朝光、波多野次郎經朝、海野小太郎幸氏、大河戸太郎重澄、 綱嶋次郎ゝゝ、 狩野七郎ゝゝ 已下射手六十人。殊に仰せて御共に有り。

引用:『吾妻鏡』

大河戸重澄は、その苗字からして武蔵国の「大河戸(大河土)御厨」(伊勢神宮領の荘園)あたりに勢力を持っていた大河戸氏の婿であった可能性があります。(大河戸氏の大河戸広行の妻は三浦義澄の姉妹でした。)

もしくは、彼自身が大河戸あたりに勢力を持っていたのかもしれません。

彼の名前は、『吾妻鏡』正治二年(1200)の記事の中に、源頼家のお供として出てきます。彼はここでは「太郎」と称されているため、もしかしたら三浦義村の庶兄であるのかもしれません。

鎌倉幕府七代目の執権・北条政村の妻は一説には「三浦重澄の娘」だと言います。もしかしたら、この大河戸重澄の娘かもしれませんね。

三浦義澄の四男?九男?:三浦胤義

三浦義澄の末子だと言われています。(ただ胤義は「九郎」で、三戸友澄のほうが「十郎」と呼ばれているので、友澄が末子の可能性もあります。)

彼は源頼家の側室であった一品房昌寛の娘を正室としていました。一品房昌寛の娘が頼家との間に産んだ子供は北条氏によって殺されており、そのこともあって北条氏に対する反感を抱いていたようです。

彼は承久の乱で朝廷側(京方)として戦い、長兄義村にも誘いをかけますが、義村には「シレ者ニカケ合テ無益ナリ」とけんもほろろに断られてしまいます。最終的に胤義は自害に追い込まれました。

胤義の子供たちは、長子を除いて全員戦死もしくは処刑されてしまうこととなりました。

北条政村の妻は「三浦重澄の娘」と言われていますが、一説には胤義の娘だとも言われています。もしもそうであるならば、女系を通して政村流北条氏につながった可能性があります。

三浦義澄の長男?五男?十男?:三戸友澄

通称が「十郎」だったことから、三浦義澄の十男だと言われていますが、名前の分かっていない三浦義澄の長男(義村の兄)に仮定する説もあります。

また嫡男である兄・義村が「平六」で、三浦胤義が「九郎」であることを考えると、三浦義澄の五男であるのかもしれません。

『吾妻鏡』等には名前が出てこないため、いまいち実在性の乏しい人物でもあります。

苗字からすると三浦半島の三戸地区あたりに勢力を持っていたのでしょう。おそらく義澄の庶子ではないでしょうか。

彼は兄弟の胤義同様、承久の乱で朝廷側(京方)につき、最終的湖南の戦いにて戦死しました。彼の家臣によって彼の首は三戸の地にまで持ち帰られ、葬られたといいます。

三浦義澄の娘たち

三浦義澄には少なくとも2人娘がいたようです。(さらに未知の娘がいた可能性も捨てきれません。)三浦義澄の娘たちについて述べていきます。

三浦義澄の娘:天野政景室

『天野系図』によると、天野政景の妻は三浦義澄の娘だったと伝わります。(天野政景の妻は一説には高井高茂の娘だと言われてもいますが、もしかしたら高井高茂娘は側室、もしくは後室なのかもしれませんね。)

天野政景は石橋山の戦いの時から頼朝に味方し続けていますが、彼の名前が世に広まるのは承久の乱でのことです。

承久の乱で彼は京方の三浦胤義(義兄弟でもあるのですが……)を攻撃、さらに京方の山田重忠を敗死に追い込みます。その戦功を評価されて、政景は長門国守護となり、さらに多くの荘園を与えられました。

なお、この栄光には影の側面もありました。承久の乱の際に、政景の息子の1人時景は京方で参戦し、最終的に処刑に追いやられているのです。

三浦義澄娘(天野政景室)が、政景の大勢いる子供たちの中の何人かの母であるのかは分かりません。

ただ、もしも彼女の子が天野氏の後継者となっていた場合、戦国時代に今川氏・武田氏に臣従した遠江天野氏や長州藩士となった安芸天野氏、旗本となった三河天野氏に三浦義澄の血は受け継がれたのかもしれません。

三浦義澄の娘:安西景益室

三浦義澄の娘の一人は、安房国丸御厨を本拠としていた源頼朝の幼馴染・安西景益の妻となったといいます。

安西景益は、頼朝が石橋山の戦いでの配送後、安房国に流れ着いたときに頼朝の世話などをしたようです。

安西景益ら、安西氏の子孫は、戦国時代まで安房国で勢力を築いたようです。しかし最終的に安房里見氏の支配下に下り、里見氏改易後は帰農したといいます。古河公方足利氏に仕えた安西氏はのちに家康に仕え、旗本として続きました。

三浦義澄の娘?:源頼家側室・公暁母

頼家男、若宮別当。母三浦介義澄女。

『源氏系図』

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明治時代にとある民家から見つかった古文書『源氏系図』において、公暁の母として「三浦介義澄女」が記載されています。

従来、公暁が実朝暗殺後に三浦義村を頼ったのは、義村の妻が公暁の乳母であることなどが理由とされてきましたが、もしもこの『源氏系図』が正しいのだとしたら、義村は公暁の伯父であった可能性がありますね。

ただ公暁の母については、『吾妻鏡』といった公的な歴史書では足助重長娘の辻殿と記載がありますので、おそらく三浦義澄の娘である可能性は低いでしょう。

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