陽成院の妻と子たち

古代史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

藤原摂関家出身の藤原高子を母に持ち、幼少ながらに即位したにも関わらず、乱行や摂関家との確執で退位に追いやられた陽成院。そんな荒々しく危険なイメージがありながらも、百人一首ではピュアで情熱的な和歌を残していることでも有名ですね。

ここでは、陽成院の妻と子たちについて調べてみました。

ちなみに陽成院の妃の数ですが、父清和天皇や、大叔父光孝天皇、その後継者の宇多天皇らに比べるとかなり妃が少ない!若くして退位したせいなのか、本人があまり女性に手を出さないタイプだったのか……。そのあたりも気になるところではあります。

陽成院正妃:綏子内親王

つくばねの 峰よりおつる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる

引用:『小倉百人一首』陽成院

陽成院退位後に迎えた正妃(妃)が綏子内親王です。光孝天皇の御所六条東洞院の釣殿院に住んだことから、「釣殿宮」と呼ばれました。

陽成院退位後に藤原氏によって立てられ即位した光孝天皇(仁明天皇皇子で陽成院の大叔父)の皇女で、母は光孝天皇の女御班子女王(桓武天皇の孫娘)、宇多天皇の同母妹にあたります。

綏子内親王の生年は不明ですが、母の生年(833年)や、第八皇女であること、同母姉の第四皇女忠子内親王(陽成天皇の父、清和天皇の女御)が854年の生まれであることなどを踏まえると、陽成院と同年代か、少し年上であった可能性が高そうですね。

彼女が退位後の陽成院に入内したのは、おそらく父・光孝天皇や兄・宇多天皇なりの上皇に対する気遣いでもあるのでしょう。上記和歌がいつ送られた和歌なのかは分かりませんが、陽成院の唯一後世に知られる和歌の送り先でもあり、それなりに平穏に夫婦生活を送ったのではないでしょうか。

綏子内親王は陽成院との間に子を儲けることなく、925年に亡くなります。陽成院は彼女の死後およそ25年を生き抜き、949年に亡くなりました。

陽成院妃?宮人?:姣子女王(姉子女王、好子女王)

「女王」であるので皇族女性だと思われますが、出自は不明です。

一説には、姣子女王は光孝天皇皇子の是忠親王(宇多天皇の同母兄)の娘では?とも。もしもそうならば、叔母の綏子内親王が、自分に子供が生まれないので陽成院に推挙して後宮に入れたのかもしれません。そうだとすると切ないです……。

姣子女王は、寛成九年(897年)における醍醐天皇の即位式で、高御座の帳を上げる褰帳の女王という儀礼上重要な役割を果たし、従四位に任ぜられています。(『天祚礼祀職掌録』より)

この時点ではまだ陽成院とは結婚していなかったようですね。もしかしたら女官として宮中に出仕していたのかも?

その後、延喜元年(901)に元長親王、その後に続けて元利親王、長子内親王、儼子内親王の4人の子供を産みました。

このうち、儼子内親王は延喜八年(908)に亡くなっていますので、早世したものと思われます。長子内親王も延喜二十二年(922)、おそらく10代のうちに亡くなっているようです。男子2人は老年まで長生きしました。

陽成院の子供を4人産んでいるのは彼女だけですから、子供の多さもあり綏子内親王に次いで重んじられたことかと思われます。姣子女王の没年は分かっていませんが、もしも綏子内親王よりも長生きしていたのならば、事実上の正妃扱いだったかもしれません。

陽成院宮人:藤原遠長女

引用:わびぬれば 今はた同じ 難波なる 身をつくしても 逢はんとぞ思ふ

引用:『小倉百人一首』元良親王

藤原遠長女の名前は何だったのかは、まったくつたわっていません。父の藤原遠長は、主殿頭という従五位相当の官職についていたようです。中級貴族といったところですね。

藤原遠長女は、陽成院退位後に、元良親王(寛平二年【890年】生まれ)と元平親王を産んでいます。陽成院の他の皇子には、親王位が与えられず臣籍降下した皇子もいるため、藤原遠長女の2人の皇子はまだ運が良かったのかも?

元良親王は宇多天皇皇女誨子内親王、さらには醍醐天皇皇女修子内親王と結婚するなど、宇多天皇・醍醐天皇2人の天皇の婿にもなっているにも関わらず、宇多院の退位後の妃・藤原褒子(京極御息所)との恋愛もささやかれるなど、なかなか華やかな恋愛生活を送っています。

元良親王は、父陽成院同様、小倉百人一首の歌人としても有名です。小倉百人一首にとられた和歌は、藤原褒子(京極御息所)との道ならぬ恋が露見した際のものだと言われています。

陽成院宮人:紀君(紀氏)

前述の藤原遠長女はまだ父親の名前が分かっていましたが、彼女に至っては父の名前すら分かっていません。

陽成院の乳母・紀全子とは同族のようですから、紀全子の推挙で陽成院の後宮に入ったのかもしれません。陽成院退位前に確実に後宮にいたことが分かっている唯一の女性です。

陽成院の退位前後に、陽成院の第一皇子となる源清蔭を産みました。母紀氏の身分もあってか、源清蔭は親王位を得ることはできませんでしたが、醍醐天皇皇女韶子内親王と結婚し、正三位大納言まで昇進することとなります。

陽成院宮人:伴氏(一説には伴保平女?)

こちらの女性も伴氏出身だということしかわかっていませんが、一説には従三位参議・伴保平の娘ではないかと言われています。伴保平は諸国の国司を歴任した後、73歳!の高齢にして参議についた人物です。

ただ母方の祖父がまだ位階が高い割に、子供の源清鑒は親王位をもらえず、臣籍降下しているのは少し不思議なような気もしますが……。

この時代、伴氏(かつての大伴氏)はすでに応天門の変などで勢力が衰えていましたから、そのあおりをうけたのかもしれませんね。

伴氏の息子・源清鑒は生年は不詳ですが、延長三年(925年)に臣籍降下していますので、910年ごろの生まれではないでしょうか。彼は従三位刑部卿の地位にあり、承平六年(936年)に、父の陽成院に先立って、おそらく30代になるかならないかで亡くなっています。

陽成院宮人:佐伯氏

古代豪族佐伯氏出身の女性であるということ以外分かっていません。紀氏、伴氏といい、陽成院の周りにはやや没落気味の古代貴族の家系の女性がよく集まっているような……?

彼女はもしかしたら陽成院の末っ子になるかもしれない皇子・源清遠を産んでいます。源清遠は従四位刑部卿の地位にあり、また長徳二年(996年)、一条天皇の時代(清少納言が活躍した時代ですね)まで長生きしました。

陽成院宮人?:おほつぶね

在原棟梁の娘で、本院侍従(「少将滋幹の母」こと権中納言敦忠母)本人とも、その妹とも。つまるところ、陽成院の母高子とも噂があったあの希代の色男・在原業平の孫娘です。『大和物語』によると、陽成院の妾であったとのこと。

しかし陽成院と添い遂げたわけではなく、「平中」こと平貞文や、陽成院の弟・貞元親王とも関係を持っていたようです。恋愛関係の華やかさも祖父に似たのかもしれませんね。

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