鎌倉幕府の2代目執権であり、承久の乱の勝者となった北条義時。2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の主人公で、小栗旬さんが演じますね。
そんな北条義時ですが、実は死因について複数の説がささやかれている人物でもあります。北条義時の死因と、最期の様子についてまとめてみました。
北条義時の公的な死因は「脚気衝心」
雨降。前奥州(北条義時)病痾已及獲麟之間、以駿河守(北条重時)為使、被申此由於若君御方(九条三寅=九条頼経【4代将軍】)。 就恩許、 今日寅剋、 令落飾給。 巳剋 〈若辰分歟〉 、遂以御卒去〈御年六十二〉 。日者脚気之上、霍乱計会云々。
引用:『吾妻鏡』
北条義時は承久の乱(1221年)の戦後処理が終わった後、元仁元年(1224年)に亡くなりました。このころに北条義時はたびたび自身の長寿や健康を祈って仏事にいそしんでいたようですが、その仏事の甲斐なく亡くなってしまうことになります。
『吾妻鏡』では、長年脚気を患っていたように表記があるようですが、『百練抄』や『明恵上人伝記』などでは「頓死」「頓病」などとも表記があるため、おそらく誰もが亡くなるとまで思っていなかったようですね。
急な死であったのは間違いないようで、遺産相続についても「譲状」がなかったため、北条政子の判断で長男泰時に多く譲られるも、泰時から弟たちに所領が分割されたのだとか。病気ではあってもまだまだ長生きするつもりだったのでしょうね。
北条義時の死にまつわる俗説①妻・伊賀の方による毒殺説
北条義時の義弟・宇都宮頼綱の姻戚であった京の公家・藤原定家が自身の日記『明月記』にて、北条義時は後妻の伊賀の方に毒殺された!というセンセーショナルな説を紹介しています。とはいえど、あくまでも定家自身が「うわさ話」として日記に記した内容ではあります。
それによると、義時の死の3年後、後鳥羽上皇の側近で逃亡していた尊長という僧侶が捕縛された際に、「義時の妻が義時に飲ませた薬で自分を殺せ」と叫んだ……のだとか。
この尊長、伊賀の方の義理の息子(伊賀の方の娘が、尊長の兄弟の一条実雅に嫁いでいた)の兄弟だったため、もしも伊賀の方が暗躍していたとしたら、それを知っていてもおかしくはない立場ではあります。とはいえど、どこまで本当なのでしょうね。
定家自身も人づてに聞いた話のため、本当に尊長がそのようにいっていたのかも分かりません。そもそも義時を殺すまでのことをなぜしたのかも不明瞭ですよね。
自分の思う人物を将軍もしくは執権にしたいのなら、夫をそそのかして遺言書などを書かせてから殺す方が良いような気がします。(義時は遺言書、いわゆる譲状などを用意していなかったようです。)
ちなみに、義時室の伊賀の方は義時死後に「伊賀氏の変」なる事件を引き起こして(巻き込まれて?)失脚しています。その後原因不明の死を遂げたとか……。
北条義時の死にまつわる俗説②側近による殺害
上記毒殺説に似ていますが、側近によって殺害されたという説もあります。『保暦間記』という南北朝時代に書かれた史料のため、ほぼほぼ同時代に記録されている『吾妻鏡』や『明月記』に比べると、情報の信頼性は落ちますね。
害された、という表現が用いられているため、側近に何らかのケガをさせられてそのまま亡くなった、という意見もあれば、上記毒殺説と組み合わせて、伊賀の方が用意した毒が、側近の手によって義時のもとに届けられたのでは?という説もあるそうです。