妻・千代を失い、いよいよ渋沢栄一の後半生を描こうとしている大河ドラマ『青天を衝け』。そしてそろそろ渋沢栄一の後妻・伊藤兼子も本格的に活躍しそうですね。
水戸藩御用達の豪商・伊藤(伊東)八兵衛の娘でありながら、明治維新で実家が没落したために芸妓になることまで決意したこの女性は、実は渋沢栄一と結婚する前に結婚歴があったといわれています。
伊藤兼子の前夫がどのような人物だったのか、気になったので調べてみました。
渋沢栄一の後妻・伊藤兼子も再婚だった
伊藤兼子は父・八兵衛の跡継ぎ娘として、18歳の時に近江より婿を迎えています。この婿と兼子は10年ほど生活を共にし、子供も生まれたそうですが、兼子の実家の没落により、1882年(明治15年)ごろに離縁となってしまいました。ちょうど渋沢栄一前妻・千代がコレラで亡くなったころですね。兼子との離婚後、婿は実家の近江に帰ったようです。
伊藤兼子の前夫がどのような人物だったかはあまり合わっていません。近江出身とあることから考えると、いわゆる近江商人(江戸に進出していた八幡商人系か?)の家の出であったと考えられます。
前夫は離縁となった後近江に帰ったとのことですから、帰郷後は実家の商家の商売を手伝ったりしていたのかもしれませんね。自分との離縁後、さほど間を置かずに渋沢栄一の後妻となった妻のことを聞いた前夫はどのように思ったのか、気になるところです。
伊藤兼子は前の夫との間に子供もいた?
伊藤兼子は前夫との間に子供がいたとも言われています。ただ子供が何人いたか、数はよくわかっていません。伊藤兼子が渋沢栄一との再婚後に、連れ子として自分の子供を連れてきた形跡はないようですから、渋沢家ではなく実家で育ててもらうようにしていたのかもしれません。
伊藤兼子の末妹に兼子より20歳ほど年の離れた「絢」という女性がいるのですが、実は絢は兼子の妹ではなく、兼子の前の結婚で生まれた子供ではないか?という説もあるようです。絢は渋沢栄一の部下、竹田政智と結婚するなど、渋沢栄一とも深いかかわりがあります。ただもしも絢が兼子の娘だとすると、1つ問題があったりします。というのも、絢の娘・たけ子は渋沢栄一と兼子の間に生まれた秀雄と結婚しているのです。もしも絢と秀雄が父親違いの兄弟だとしたら、秀雄とたけ子の結婚は、叔父と姪の間の結婚となってしまい、かなりの近親結婚になってしまいますが……実際はどうなんでしょうね。
明治時代は、まだまだ幼児の死亡率も高い時代ですから、仮に伊藤兼子と前夫との間に子供がいたとしても、成長する前に亡くなってしまったという可能性も高いような気がします。また、近江出身の前夫が近江に帰る際に、子供を連れて行った可能性ももしかしたらあるかもしれませんね。