「鎌倉殿の13人」というタイトルは、2代将軍頼家の時代における「13人の合議制」にちなむものです。その「13人の合議制」のメンバーの1人に、「足立遠元」がいます。
スターぞろいの「13人の合議制」メンバー内だとやや影が薄い……ような足立遠元ですが、ご先祖は「更級日記」内にも出てくる「たけしば」の逸話の人物ではないかと言われていたり、京の公家とのつながりもあったり、武士でありながら行政事務の才能を評価されて公文所の役人になったりと、なかなか面白そうな人物です。
そんな足立遠元の妻と子供、子孫について調べてみました。
足立遠元の妻について
足立遠元の妻がどのような人物だったかは不明です。当時の公的な歴史書には足立遠元の妻がどのような人物だったかは記されていません。ただ足立遠元の母は武蔵国の武士(平良文の子孫で足立郡の地頭職でもあった)・豊嶋康家の娘であるため、おそらく足立遠元も武蔵国内の武家の娘と結婚していたのではないでしょうか。
また、『足立系図』においてはこのような女性が足立遠元の妻として伝わっています。
妻:源三位女二条院讃岐守女
足立遠元の五男・遠光の母として伝わる人物です。「源三位女」である「二条院讃岐守女」であった女性でしょうか。この書き方からすると、百人一首歌人で源三位こと源頼政の娘・「二条院讃岐」の娘?があてはまりそうですが……。二条院讃岐自身は公家に嫁いで息子を儲けていますので、他に娘がいたとしてもおかしくはありません。
足立遠元が娘を公家に嫁がせていることから考えると、確かに公家出身の妻がいてもおかしくなさそうではありますが、本当にこのような妻がいたのか?少し疑問なところではあります。
足立遠元は藤原光能(1132年生まれ)に娘を嫁がせており1170年ごろには孫が生まれています。また亡くなった年代は最後に彼に関する記述がある1207年(承元元年)以降となります。おそらく1160年以前には娘が生まれている……と考えると、足立遠元の生年は遅くても1140年代前半にはなるでしょう。(通説だと1130年代の生まれでは?と言われています。)二条院讃岐は1140年ごろの生まれだとされているので、もしも二条院讃岐の娘が実際に足立遠元の妻になるとしたら、文字通り親子以上の歳の差があったと思われます。
平家追討の走りとなった源三位頼政との関りを組み込もうとして無理やり系図にあてはめたのかもしれませんね。
足立遠元の子供たち
ここでは、足立遠元の子供たちについて、『足立系図』をもとに紹介していきます。
足立遠元の息子:守長
『足立系図』に名前がある人物で、『足立系図』内では長男として記載されていますます。異称は藤九郎。『足立系図』内で子孫について表記がないため、おそらく子供を持たずに早世したのではないでしょうか。
足立遠元の息子:元春(基春)
役職は「対馬守左衛門尉」。おそらく事実上足立遠元の長男(嫡子)にあたる人物だと思われます。子孫は遠親、基氏、遠氏、基舒、遠宣と続いたようですね。子孫の遠宣は「従五位」に任ぜられていることから、子孫も武士としてはそれなりの高位にあったのではないでしょうか。
足立遠元の息子:元重
役職は「左衛門尉」で、「淵江田内」と称したようです。この足立元重は、武蔵国の淵江郷を開発したようです。彼の子孫は淵江の領主だったようですが、室町時代の応永四年(1379)に、淵江郷の「足立大炊助」跡が鎌倉円覚寺の塔頭・黄梅院に寄進されていることから、おそらくその時代には後継者は絶えていたのではないでしょうか。
『足立系図』では、元重の子孫は遠清、元員、元清、清氏、元兼まで記載があります。
足立遠元の息子:遠光
母は戦術の二条院讃岐守女で、父親の遠元に先立って亡くなったようです。遠光の子孫は丹波足立家となり、織田信長による丹波攻めまで約400年の長きにわたり城主として、足立遠元子孫の中でももっとも長く武家として繁栄しました。
早世した足立遠光ですが、彼には遠春、遠政2人の息子がいたようです。長男の遠春は、三角入道の謀反を征伐する際に、石見国で敵方に打ち取られてしまったそうです。(一般的に三角入道は南北朝期の南朝方の武将・三角兼連を指すと思われるので、時代が合わないのですが……。おそらく何らかの戦乱に巻き込まれたということを示唆しているのでしょうか。)
足立遠光の次男・遠政は「久不田左衛門尉」を称していましたが、丹波国佐治庄の地頭職に任ぜられ、丹波国に移住しました。この補任は、承久の乱の戦功とも、承久の乱前後の幕府内の権力争いからの脱落ともいろいろ言われているようですが、遠政の子孫は佐治に移住後、山垣城、遠坂城、岩本城など多くの城を築き、5千石あまりの所領を治め続けます。南北朝期には南朝に与し、応仁の乱では東軍に属するなど、歴史の動きにもかかわりを持ち続けたようです。
戦国時代の終わり、丹波攻めにより、遠阪城主足立光永、山垣城主足立弥三郎基助らは討ち死にしましたが、足立基依ら足立一族は落ち延び、帰農したと言われています。
足立遠元の息子:遠景
肥後守の役職に任ぜられていました。「安須吉」を号していたようです。「安須吉」は、足立郡の「畔牛」郷のことではないかと言われており、おそらく父祖以来の土地である足立郡内に勢力を持っていたのでしょう。
足立遠元の息子:遠村
民部大夫の役職に任ぜられていました。「河田谷」と号していたようです。おそらく足立郡の川田谷、河田郷あたりに拠点を置いていたのだと思われます。足立氏一族のなかに河田谷氏を称した一族があったようですので、河田谷氏は遠村子孫でしょう。
戦国時代、上杉方に仕えた羽生城主・広田直繁の弟は「河田谷忠朝」と名乗っていましたが、もしかしたら何らかの形で河田谷氏と関係があるのかもしれませんね。(単に「河田谷」という地名を苗字としただけのような気もしますが……。)
足立遠元の息子:遠継
兵衛尉の役職に任ぜられていました。「平柳」と号していたようです。平柳も足立郡内の地名かな?と思っていたのですが、筑波国田中庄の地名?にもあるようなので、もしかしたら武蔵国ではなく筑波国のほうに拠点を置いていたのかもしれませんね。
足立遠元の息子:盛長
『足立系図』内で、足立遠元の息子として記載がある人物。「藤九郎」と勝したそうです。盛長と言うと、鎌倉幕府13人の合議制のメンバーでもあり、一般的には足立遠元の叔父と言われる安達盛長が思い浮かびますが……。安達盛長はいまいち出自がはっきりしていない人物(そもそも足立遠元と本当に血縁関係があるのかも分からない)でもありますので、そのあたりが反映されたのでしょうか。
足立遠元の娘:藤原光能妻
足立遠元の娘の1人は、後白河院の院近親で、平清盛によって解官されたことで有名な藤原光能に嫁いでいます。この藤原光能は、源頼朝とかかわりの深かった文覚と接触し、後白河院に平清盛追討の院宣を出させようと暗躍したこともあったとか。何気に平家追討の動きに関わるキーマンなんですね。ちなみに信ぴょう性は低いですが、藤原光能は実は中原親能、大江広元の父親説もあったりします……。
足立遠元の娘は、知光、光俊の2人の息子を産みましたが、藤原知光は父に連座して一時期解官されていたこともありました。(解官時の役職は「淡路守」。)藤原知光は承久の乱後、嘉禄二年(1126)十二月三十一日に亡くなったことが知られていますが、その時は「前少将」と称されているため、解官後に復官し、それなりに昇進したようですね。
足立遠元の娘:畠山重忠妻
『足立系図』において、「畠山次郎平重忠妻也、六郎重保小次郎重秀等母也」と記載がある人物です。本来なら正室でもおかしくないような人物ですが、畠山重忠は北条時政の娘を正室としていたため、この女性は側室だったようですね。(もしくは当初正室だったけれど格下げされた可能性もあるかも?)
『足立系図』においては重保の母だと言われていますが、一般的には重保の母は北条時政娘だとされることが多いようです。足立遠元の娘は、重保の庶兄である小次郎重秀の母だと言われています。重秀は父、弟ともども畠山重忠の乱にてその短い生涯を終えました。重秀の子孫は戦国時代、秩父氏を名乗り、小田原の後北条氏に仕えたと言われています。
足立遠元の娘:北条時房妻(北条時政室?)
『足立系図』において「修理権大夫平時房朝臣 遠江守時直等母也 自父遠元乎譲得足立領家職者也」と記載のある娘です。『足立系図』だと北条時房の母で北条時政の妻だったのか?というような印象ですが、北条時直は北条時政の息子であるので、おそらく北条時房の母ではなく、妻だったと考えられます。
この女性は、北条資時、北条朝直も産んだと言われています。北条資時の男系は途絶えたようですが、北条朝直は執権泰時の娘を娶るなど厚遇され、子孫は、大仏を名乗りました。大仏流北条氏は、鎌倉幕府滅亡時に主家ともども断絶します。北条時直の子孫も、鎌倉幕府滅亡と運命を共にしたようです。
この北条時房妻は、父親から苗字の地でもある足立郡の領地を受け継いだようです。