平岡円四郎の妻と子たち

近世史(日本史)

※当サイトではアフィリエイト広告を利用しています

渋沢栄一と徳川慶喜をつなぐキーパーソンともいえるのが一橋家の家臣・平岡円四郎でしょう。

大河ドラマ『青天を衝け』では、堤真一さんが演じることでも話題ですね。

藤田東湖や川路聖謨にも認められるほどの才子であった平岡円四郎は、渋沢栄一をして「一を聞いて十を知る」と言わしめるほどの人物だったそうです。(ちなみに渋沢栄一は「そのために他人に嫌われたのだ」となかなか辛辣なことも述べていますが……。)

そんな平岡円四郎の妻・子供がどのような人々だったのか、調べてみました。

平岡円四郎の妻(『青天を衝け』では「平岡やす」)

平岡円四郎の妻について、実は調べてみたのですが、情報がまったくといっていいほど出てきませんでした。伝記とか家系図とかあったらよかったんですけど……あるんですかね?

大河ドラマ『青天を衝け』では「吉原の売れっ子芸者」とのことですが……実際どこかに書いてあったんでしょうか?

ちょっとよくわかりませんでした。残念……。

ただ平岡円四郎には子供はいたようなので、おそらく妻はいたものだと思われます。

平岡円四郎自身は旗本ですから、家柄のつり合い等を考えるならば同じ旗本階級の女性だった可能性が高いかなとは思います。

平岡円四郎死後、子供を必死に育てたのではないでしょうか……。

平岡円四郎の子供:長男(道具屋)

平岡円四郎氏は一ツ橋家時代に殺されたが、その息子さんが二人あつた、その総領の方は道具屋をやつて居つて、

引用:『雨夜譚会談話筆記』下より

平岡円四郎には息子が2人いたようです。

平岡円四郎の長男は道具屋だったそうです。明治の世ですから、武士としては食べていけなくなって、商売をやっていたということでしょうね。平岡円四郎の法事は本所(東京)で行われたとのことですから、江戸の下町に住んでいたのかもしれません。

いつ頃に生まれたのかは分かりませんが、父の平岡円四郎が文政五年(1822)に生まれて、元治元年(1864)に亡くなっていること、弟の存在などからすると、明治20年ごろには20代後半~40代くらいではあったのではないでしょうか。

平岡円四郎の死後、平岡円四郎の役目を継いだのは同輩であった黒川嘉兵衛という人物のようですので、父の死亡時には、跡を継ぐには幼かった可能性もありますね。

平岡円四郎の子供:次男(裁判官)

次男は信州の方で裁判官を勤めて居つた。

引用:『雨夜譚会談話筆記』下より

平岡円四郎の次男は裁判官だったそうです。

明治20年ごろにすでに裁判官として勤務していたとするならば、帝国大学や司法省法学校あたりを卒業している可能性が高そうですが……父同様にかなり頭が良かったんでしょうか?

平岡円四郎の子孫たち

明治二十年頃と思ふが、私は本所の何とか云ふ法華宗の寺で平岡円四郎氏の法事を行つた事を覚えてゐる。その後二人の息子さんの消息もわからなくなつて仕舞つた。

引用:『雨夜譚会談話筆記』下より

平岡円四郎の子供たちと渋沢栄一のかかわりは、どうも明治20年ごろまではあったようですね。

ただ明治20年ごろの平岡円四郎の法事後、平岡円四郎の子供たちと渋沢栄一のかかわりはなくなってしまったようで、平岡円四郎の子供たちがどうなってしまったのかは分かりません。

明治、大正、昭和……激動の時代を、何を思って彼らは生きていたのでしょうか。

 

2021年5月18日追記

上記記事は『雨夜譚会談話筆記』という渋沢栄一が老年になって語ったことを孫の渋沢敬三氏が編纂した書物に書いてあったことを参照し、記事にしたのですが、今回こちらのブログ記事に平岡円四郎氏の子孫という方からコメントが寄せられましたので、そちらもご参照ください。

平岡円四郎氏には娘が2人がいて、娘の家系は渋沢栄一氏と後代になってもつながりがあったとのことです。

コメント

  1. 平岡一矩 より:

    平岡円四郎の子孫で5代目玄孫です。記事は、全くの出鱈目です。円四郎には、娘が二人、当家は二女の直系です。澁澤家とは、現在も付き合いが継続しております。二女は、1881年に死去、上野池之端にある、正慶寺に円四郎が建立した墓があります。勿論両親もすぐ側の墓に入っております。過去帳が消失してない限り経緯がわかるかと思います。二女のお位牌以降の先祖の位牌は、長男である私が預かっております。父の50回忌も過ぎ、母も15回忌を過ぎました。円四郎の姉の子孫は、父の頃に甲府へ引っ越しされたと聞いております。付き合いはありません。父は、大学生の頃、渋沢栄一の書生をしておりました。私どもの結婚式には、栄一の孫娘夫婦が列席されています。平岡家は、かなり前から、女系で、婿養子だったそうで、父の代でようやく男子が誕生です。

    • 名古屋在住のものです より:

      突然、ご連絡いたしまして申し訳ありません。

      平岡円四郎の子孫と言うにはおこがましいのですが、私の親族の伝承において、円四郎氏と血のつながりがあると言われてきました。
      私の曾祖母(ひいお婆さん)が円四郎氏の孫に当たり、旧姓は平岡だったとのことです。曾祖母の母親は「やえ」さんとの名前だったとのことですが、円四郎氏の長女・二女どちらに当たるのか、現在、親族で分かる人はいません。
      私自身、その話の信憑性に確証を持てずにいるのですが、平岡一矩さまが、何かご存じでしたらご教授願えませんでしょうか?
      ちなみに曾祖母の名は「花子」と言い、渋沢栄一氏が名付け親だったそうです。

      どうかよろしくお願いいたします。

    • 加藤 久和 より:

      平岡様 私は花子の孫にあたります。

      父尋康は、若き頃一矩様には、大変お世話になった事は伝え聞いております。

      円四郎の話は子供の頃祖母花子から幾度か聞いた記憶がございますが、本家従姉妹久美子と私の弟が、一緒にじっくり聴いているとの事です。

      名古屋在住の方、多分ですが、わたしは、色々あってお会い出来ませんが、おばさんの久美子さんに聞いたら良いとおもいますよ。

  2. 渋沢の子孫です より:

    初めまして、私は渋沢栄一の来孫にあたる者です。
    母方の高祖母が長女の歌子(うた)になります。

    私の祖母(穂積陳重の娘、市河三喜に嫁いだ晴子の娘です)が、存命だった頃は話を聞くこともありましたが、それもだいぶ昔の事に。
    今回の大河を観て初めて知る事が多く、新鮮な気持ちで楽しんでおります。

    特に、平岡円四郎様と渋沢栄一の縁については、不勉強であったため恥ずかしながら存じておりませんでした。

    遠い昔に平岡様のご恩があったお陰で、今日の私達子孫が存在しているかとも思います。

    史実は覆せるものではありませんが、今夜(30日)の放送を観て、改めて平岡円四郎様への感謝と、きっと無念であったろう当時のお気持ちに思いを馳せております。

    ※ご子孫はどうされているのだろうと検索したら、このブログにたどり着きました。私信的なコメントで失礼をご容赦くださいませ。

  3. 高石雅子(旧姓 平岡) より:

    はじめまして
    私も円四郎の玄孫に当たるものです。
    こちらの記事が誤りであるようなご意見がございましたので、一言お伝えしたくコメントさせていただきました。

    私は円四郎の次男「信次郎」が曽祖父にあたる系統でございます。
    こちらの記事の渋沢栄一様のお言葉通り、信次郎は上田で裁判官をしていました(国会図書館には信次郎が監修した法律書もあります)。
    そして、僭越ながら当家には円四郎と屋壽(ドラマでは平仮名で「やす」とされていましたね)のお位牌もその両親(養父母)にあたる平岡文次郎と辰子のお位牌もございます。
    お位牌にはその他に明治30年に亡くなった「制行」と大正3年に亡くなった「文和」という名が円四郎と信次郎の間にございます。「制行」は戒名に「童」が付いておりますので、子供の頃に他界したのではと思います。おそらく「文和」が道具屋さんになった長男で、独身だったため(お位牌に奥様の名前がありません)、次男の「信次郎」がお位牌を預かることになったのかと思います。

    円四郎の娘二人については、円四郎亡き後、なにか援助したいと考えた栄一様が、まさか使用人にすることもできないので、お孫様の書道の先生に円四郎の娘を迎えるという形で援助してくださったと、栄一様のお孫様に当たる鮫島純子様(今年99才になられます)から聞いています。おそらくそれが「やえ」様であれば、そのお嬢さんの「花子」様の名付け親が栄一様であることもうなずけます。
    また、鮫島様は名古屋に嫁がれていて、戦災で焼け出された折には、やはり名古屋に嫁いでいた円四郎の娘(加藤姓になっていたそうです)がお泊めしたとも伝え聞いております。
    鮫島様に伺ったお話は、名古屋の方からのコメントにもつながるような気がします。

    平岡円四郎のお墓があるとの「臨済宗妙心寺派寺院の正慶寺」は、元禄十四年に柳澤甲斐守吉保の家臣平岡宇右衛門が中興開基したお寺ですが、渋沢様が「本所の法華宗の法事に出た」とおっしゃるとおり当家は法華宗ですので、臨済宗のお寺にお墓を建立するとは考えにくいのですが、墓石にでも円四郎建立と書かれているのでしょうか?
    最初は、次女の方にお墓を任せたのかとも思いましたが、お寺の宗派が違うので・・・
    私が直接見たのではないのですが、刻まれている紋も丸十字とのこと。もしそれが本当ならば、当家の紋は「九つ割丸三つ引き」なので、ちょっと不思議に思います。ドラマでは丸十字の紋でしたので、NHKに違うとメールしたのですが、無視されてしまいました(笑)。(前回の大河ドラマ「徳川慶喜」のときは変更してくれたのですが)

    古文書にも円四郎の紋が記されていることがツイッターに書かれておりましたのでご参考まで。
    https://www.trendsmap.com/twitter/tweet/1399117106369634308

    では、円四郎の墓はどこにあるのかというと、恥ずかしながら祖父の代のころ、本所の広いお墓を維持することができず、お墓を手放してしまったと聞いております。
    江戸の時代京都で亡くなったご遺体を火葬するわけではないですし、江戸まで運んでくることもできなかったでしょうから、本所のお墓も墓石だけだったので手放したのだと思います。私たちの代としては悔やまれますが・・・
    祖母も両親も、お墓がない分お位牌をとても大切にしておりました。

    栄一様の語録にお嬢様の話が出てこなかったのは、時代なのかなと思いますが、信次郎の系統は女系ではなく、男系で5代目(私の弟)まで何とかつながっております。ただ、6代目は娘しかおりませんが…。

    祖父の代の時に円四郎の遺品を疎開させようとしたところ、その疎開列車が空襲を受けほとんど焼失してしまい、わずかながら残っていた徳川慶喜公からいただいた陣羽織と小刀も祖母が認知症になった折に捨ててしまいました。
    円四郎の日記も、私が嫁ぐ前には仏壇の引き出しの中にあったのですが、先日実家の仏壇の引き出しを見たら空になっており、行方不明という有様。
    円四郎には申し訳ない末裔でございますが、私の知る限りの情報でこちらの記事は「出鱈目」ではないということをお伝えできればと思いました。

    色々と調べていただき、ありがとうございました。

タイトルとURLをコピーしました