シンデレラにはなれない 九条院 藤原呈子

中世史(日本史)

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さて、お久しぶりです。
女院シリーズ(勝手に命名)、続きの九条院から始めます。

九条院 藤呈子 近衛后 太政大臣伊通公女 法性寺関白為子 母権中納言顕隆女 久安六二十六 叙従三位 十九 四月二十八
為女御 六月二十二為中宮 久寿二八十五 為尼 御■年二十五 清浄観 今年七二十三 近衛院御事 保元元十二十七 為皇后宮
同三二三 為皇太后 仁安三三十四 癸酉 院号 安元二七八 御事 四十二

『女院小伝』より

しかしこの女性、イマイチパーソナリティーが見えてこない……
なんというか、彼女よりも周りの人のエピソードが強烈すぎるというか。
平安一のシンデレラ美福門院、二代の后藤原多子、そして彼女の雑仕女には常盤御前(源義経母)といった美女のオンパレード。
はて、彼女自身はどんな人なのか?

美福門院のお気に入り

彼女はもともと、美福門院の養女でもありました
彼女の父、伊通が美福門院の従兄だったため、その縁によるものでしょう。
なぜ養女にしたか?
おそらくそれは、美福門院の権力を固める、ひとつの布石としてでしょう。
彼女は美福門院の思惑通りに、美福門院の息子、近衛天皇に嫁ぎます。(この時に摂関家の藤原忠通の養女にもなっています。)
ちなみに近衛天皇の后には、藤原多子(『二代の后』、藤原忠通の異母弟、頼長の養女、近衛天皇没後に二条天皇にも嫁ぐ)が既にいましたが、
彼女は多子の入内後に入内を果たし、そして中宮になります。(なんとなくこのくだりは上東門院藤原彰子にも似ていますね。)

入内後

美福門院の肝入りで入内した九条院でしたが……彼女が妊娠することはありませんでした。
(一度妊娠騒ぎを起こしていますが、出産までは至りませんでした。想像妊娠では……と言われています。)

今夕、中宮入内行啓被用御車、其儀如恒、不遂御産、令退出給之後已送数月

『兵範記』仁平三年十二月二十七日 条より

美福門院の期待が、もしかしたら呈子を追い込んだのかもしれません。

結局、夫の近衛天皇はいずれの妃との間にも子供を儲けることなく、亡くなってしまいます。
呈子は後宮を去り、尼となりました。

九条院はどのような女性だったのか

御むすめこのゑのみかどの御時、女御にまゐり給へりし、后にたち給ひて、みかどかくれさせ給ひにしかば、御ぐしおろし給ひてけり。九条院と申すなるべし。法性寺殿の御子とてまゐり給へれど、まことにはこの御子なれば、いとめでたき御名なり。きさきにはたち給へれど、院の御むすめ、
一の人などならぬはかたき事にてはべるなる。御みめも御けはひも、いとらうある人になんおはすとて、鳥羽院もいと有がたくとぞほめさせ給ひける。このゑのみかどのかくれさせ給ひて、御ぐしおろしたまひてまたのとし、さ月のいつかの日、皇嘉門院にたてまつらせ給ひける、

あやめ草ひきたがへたるたもとには昔をこふるねぞかゝりける

御かへし

さもこそはおなじたもとの色ならめかはらぬねをもかけてける哉
と侍りけるとぞきこえ侍りし。

『今鏡』より

周りが強烈ではありましたが、彼女自身も美しい女性だったようです。そして心持もよい女性だったのでしょう。
そして、夫たる近衛天皇のことも、きっと愛していたのでしょう。

父が美福門院の従兄でなければ、貴族の姫君として穏やかに結婚をして、生涯を送ったのかもしれません。
もしくは近衛天皇の子供を産むことができれば、美福門院の後をついで国母、女院として朝廷に君臨したのかもしれません。

近衛天皇没後はひっそりと暮らし、42歳でその生涯を終えました。

さて、次の女院は、平家出身のシンデレラです。平家興隆の一助ともなったこの女性については、また別の機会に。


「平家物語」の時代を生きた女性たち (小径選書2)

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