
戦国三大美少年には入っていないけれど、美少年と逸話の残る人物は何人かいます。彼らについてまとめてみました。
岡剛介(岡清三郎)
宇喜多直家の小姓でした。
宇喜多氏に敵対する穝所(税所)元常が男色好みであったため、彼のもとに差し向けられ、討ち取ったといわれています。
この時はまだ元服前だったとか。末恐ろしい少年ですね。
ただこの逸話自体は嘘ともいわれています。
成長したのちに忍山城を守るようになりますが、毛利氏の度重なる侵攻に忍山城は落城。
この時亡くなったと言われています。30代での死亡でしょうか。
宇喜多直家
岡剛介の主君である宇喜多直家も美形で有名でした。
彼は幼いころに祖父を殺されて以降、流浪の日々を送ります。
しかし祖父を殺した主君、浦上宗景にその美貌を見込まれたことにより、のし上がっていきます。
そしてその主君を追放して備前の盟主となるのです……
陶晴賢
山口の戦国大名・大内氏の重臣の家系に生まれた彼は幼少期美少年として知られ、主君大内義隆の寵愛を受けました。
しかし彼は後に公家趣味に走った大内義隆を自害に追い込みます。
そしてその5年後に、厳島の戦いで毛利氏に大敗北を喫し、自害に追い込まれました。
小早川隆景
毛利元就の三男。彼も若いころ美貌で有名だったため、大内義隆と衆道関係にあったそうです。
鎌倉以来の名門小早川家の娘と結婚し、小早川家を相続しました。
蘆名盛隆
二階堂家の出身で、当初人質として蘆名家に入りました。
しかし蘆名家の跡継ぎが早逝したため、その跡継ぎの妻と結婚し、彼が蘆名家を継ぎます。
美男子として有名で、“鬼義重”と呼ばれた佐竹義重が戦場で彼の姿を見て一目ぼれ、その思いのたけをつづった手紙を送りつけたといいます。
そんな彼は20代で殺されてしまうのですが……
大庭三左衛門
上記の蘆名盛隆の家臣で、盛隆を殺害した人物。
二本松氏に仕えていたが、盛隆に仕えるようになり、その美少年ぶりから寵愛を受けたといわれる。
井伊直政
徳川四天王・徳川十六神将などに数えられ、徳川家康の重要な家臣です。
また井伊直弼を輩出した彦根藩井伊家の始祖でもありますね。
井伊の赤揃えなど、武勇でも知られています。
そんな彼も美少年として有名で、徳川家康の寵童だったともいわれています。
また、家康のもとに人質として送られていた大政所やその侍女たちがその美貌からほれ込んだとも。
島津豊久
知将・島津家久の息子で、関ケ原の戦いにおける「島津の退き口」での武勇でも知られています。
そんな彼も美少年で有名だったようです。薩摩は男色が盛んだったといわれていますので、彼もまたもてたのではないでしょうか。
ちょっと調べただけでもいっぱいいますね!
そして皆さまなかなか武勇に優れているようで。
美と武は両立するのでしょうか。
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