古代史(日本史)

推古天皇の子孫はいるのか?日本初の女帝・推古天皇の子孫について調べてみた

日本には、8人の女帝(女性天皇)が存在しました。 女帝の第一号として名高いのが、聖徳太子を摂政としたことでも知られる推古天皇ですね。 推古天皇はもともとは欽明天皇の皇女・額田部皇女として生まれ、異母兄の敏達天皇の皇后となった女性でした。 敏...
中世史(日本史)

三浦胤義の妻(正室、側室)と子と子孫たち

承久の乱において、京方についた武将の代表格が三浦胤義です。 彼は「鎌倉殿の13人」こと13人の御家人の一人・三浦義澄の末子、かつ三浦義村の同母弟(異母弟の可能性もありますが……)という非常に鎌倉幕府の中枢に近い身の上でありながら、承久の乱時...
古代史(日本史)

持統天皇の子孫は今にも残っているのか?持統天皇の子孫について調べてみた

日本史において政治に携わった女性は数多くいますが、その中でも最も精力的に政治にいそしんだのは、古代の女帝・持統天皇でしょう。 天智天皇皇女として生まれた彼女は、叔父・天武天皇の皇后となり、天武天皇の死後、早世した息子に代わって自らが女帝とし...
中世史(日本史)

藤原秀康の妻(正室・側室)と子孫

承久の乱において、後鳥羽上皇軍の総大将の地位にあったのが藤原秀康でした。 この秀康、先祖は大百足退治で知られる俵藤太こと藤原秀郷なのですが、本人は鎌倉から遠く離れた京の地でおもに御所の警護にあたっていた人物、かつ受領として富を築いてきた人物...
中世史(日本史)

鎌倉幕府第六代将軍・宗尊親王の妻(正室、側室)と子供たち

鎌倉幕府の将軍は源氏将軍が3代で絶えた後、頼朝の妹の子孫である摂家の子息を将軍としていました。 しかし、四代目将軍・藤原頼経、そしてその息子の5代目将軍・藤原頼嗣はいずれも若いうちに将軍位を追われ、京へと追放されます。 新たに鎌倉幕府が迎え...
中世史(日本史)

北条時氏の妻(正室・側室)と子と子孫たち

『御成敗式目』を制定するなど、鎌倉幕府の安定化を図ったことで知られる三代目執権・北条泰時。 泰時の後継者は、三浦義村の娘との間に生まれた嫡男・時氏でしたが、彼は早世してしまいます。 しかし、時氏の子たちが祖父の跡を継いだことで、時氏の血筋は...
中世史(日本史)

源仲章の妻(正室・側室)と子たち

『鎌倉殿の13人』では、生田斗真さんが演じることでも話題となっているのが、公家でありながら鎌倉幕府においても重きをなした文章博士・源仲章です。 仲章は後白河院近臣を父に持ち、後鳥羽上皇の側近になりながらも、幕府とかかわりを持ち源実朝の教育係...
中世史(日本史)

檜皮姫 北条政子になれなかった得宗家の娘

鎌倉幕府五代目の将軍・藤原(九条)頼嗣は、若くして将軍位を追われ、追いやられるようにして戻ってきた京都で病にかかり、早世します。 短く、悲しい一生を送った藤原頼嗣は、生前一人の女性と結婚していました。 彼女の名前は檜皮姫、北条泰時の孫娘で、...
中世史(日本史)

鎌倉殿の13人・鶴丸のモデル?内管領(家令・御内人頭)・平盛綱

鎌倉幕府というのは、権力が激しく移動した政権でもありました。 朝廷から鎌倉将軍へと移動した権力は、幕府内でさらに執権・北条家、さらに北条一族の中でも得宗家へと移り動き、最終的に北条一族ですらない、北条家の家人に過ぎない「内管領」へと移りまし...
中世史(日本史)

孕石元泰 家康と因縁があったかも?しれない駿河の武将

家康と言えば、若い頃は今川家臣として苦労した……というイメージが付きまとっています。 その中でも「家康をいじめていて、後で手痛いしっぺ返しを食らった」という人物として、今川氏、後に武田氏に仕えた「孕石元泰」という武将がいます。 この孕石元泰...