織田信長ら戦国大名たちとの交流で知られる宣教師のルイス・フロイスによると「300人もの若い女性を城に囲っていた」とも言われるほど、女性好きだった豊臣秀吉。
実際に伝わる側室の数は10数人ほどと、実は徳川家康よりは少ない程の数なのですが、実際には歴史に名を残していないだけで多くの女性を相手にしたようです。
天下人ですから、文字通り一夜だけ共にしてポイっとした女性の数も数えきれないほどだったのでしょうね……。
そんな秀吉ですが、彼の権力などをもってしてもモノに出来ず、袖にされてしまった女性も実は少なからずいました。
この記事では、秀吉が側室に迎え入れようとするも拒んだ女性、また秀吉が関係を持とうとして失敗した女性、また秀吉のもとから去って行った女性たちについてまとめてみました。
秀吉をフった女たち①:お市の方(織田信長妹、浅井長政室、後に柴田勝家室)
秀吉をフった女性、として多くの人が名前を思い浮かべるのは織田信長の妹で絶世の美女として知られるお市の方ではないでしょうか。
最近だと大河ドラマ『どうする家康』において、北川景子さん演じるお市の方が、ムロツヨシさん演じる秀吉に強烈なビンタをかましていたシーンを思い浮かべる人も多いでしょう……。
一説には彼女は秀吉の求愛を振り払って柴田勝家と再婚し、北ノ庄城落城時には秀吉が保護しようとしたのを拒んで勝家とともに自害したのだとも。
自分の手についぞ入らなかった高嶺の花を思うあまり、秀吉はお市の方によく似ていた茶々姫を側室に迎えた、とも言われていますね。
とはいえど、この話はあくまでも俗説にすぎず、実際に秀吉が彼女に思いを寄せていたのかは分かりません。
そもそも柴田勝家との再婚話自体、実は秀吉が勝家を懐柔するべく持ち出してきた話、とも言います。
本当に秀吉が彼女に思いを寄せていたのならば、彼女を柴田勝家と再婚させるでしょうか?
織田家にはお市以外にも、多くの女性がいました。信長の娘はもちろん、信長の数多くの兄弟たちにも娘たちがいましたから、彼女たちを嫁がせることだってできたはずです。
政略結婚の駒に出来る程度ですから、あくまでも秀吉にとっては彼女は信長の妹以外の何物でもなかったのでは?とも思います。
とはいえど、秀吉は信長の娘(三の丸殿)や信長の姪(姫路殿、淀の方)など、織田家血縁の女性を身近に集めていたのは事実。
それにはかつての主君への憧れがあったのかもしれませんし、またお市の方へのひそやかな恋心もあったのかもしれませんね。
秀吉をフった女たち②:おきく(松下家家臣の娘、秀吉の前妻?)
彼女は秀吉に三下り半をたたきつけた女性です。
秀吉は、実は正室の北政所・ねねとの結婚より前に別の女性と結婚していたと言う説があります。
秀吉は信長に仕える前に遠江に赴き、今川氏家臣・松下之綱に仕えていました。この時に主君の松下之綱の斡旋で、松下家家臣の娘であるおきくと娶せられました。
おきくは美人でしたが、身分が低い秀吉の妻となったことを厭い、秀吉が松下家を退出した際に離縁したといいます。
主君の命で渋々結婚したわけですから、主君のもとから離れようとする夫に付き従う必要はない!ということでしょうね。
秀吉と別れた後の彼女の様子は分かりません。とはいえど当時は割と再婚も盛んでしたから、別の松下家家臣あたりと再婚したのではないでしょうか。
秀吉が信長のもとで頭角を現し、天下人となった後、彼女はどのように感じたのでしょう。
天下人となった夫を手放すべきではなかったと臍をかんだのか、あるいはやっぱり離縁しておいて良かったと感じたのか。
秀吉をフった女たち③:冬姫(相応院、織田信長娘、蒲生氏郷正室)
秀吉は織田家の血筋の女性にかなり関心があったようで、実際に信長の娘や姪たちを側室として迎え入れています。
そしてその例にもれず、信長の娘であった会津藩主蒲生氏郷の正室・冬姫にも強い関心を抱いていました。
とはいえど、彼女の夫の氏郷が存命中はさすがに手を出すことはなかったのですが、なんと氏郷は40歳の若さで亡くなってしまいます。
まだ30代の若さの冬姫が未亡人となるやいなや、秀吉はモーションをかけ始めるのですが……その動きを厭った冬姫はあっさりと出家してしまいます。
流石の秀吉と言えど尼僧には手を出せず……とはいえどうまくいかなかったことによる腹立ちはあったようで。
氏郷と冬姫の息子である秀行はこの後、家中のいさかいが激しいことを理由に会津藩91万石から宇都宮12万石という大減封と移封を食らうこととなってしまいます。
が、これには実は冬姫に手を出せなかった秀吉の意趣返しも含まれていたのでは、とも言われています。
秀吉をフった女たち④:千利休娘(次女ないしは三女、名前は「おさん」とも。)
千利休の娘は利休の弟子(あるいは従弟)に嫁いでいましたが、彼女の美貌を知った秀吉は、彼女を大阪城に出仕させようと躍起になりました。
しかし千利休はこれをきっぱりと断ってしまいます。「娘のコネで出世したとか言われたくないんで……。」
秀吉はその言い分を受け入れ、彼女を出仕させることはあきらめましたが、利休に対するいらだちはその後もしこりのように残り続けたようです。
その後、千利休はなんやかんやと理由をつけられ、秀吉によって自害に追いやられることとなりました。
理由はいろいろとあるようですが、この出来事も秀吉の中では尾を引いていたのかもしれません。
秀吉をフった女たち⑤:細川ガラシャ(お玉、明智光秀娘、細川忠興室)
明智光秀の娘で、後の熊本藩祖・細川忠興の妻となったキリシタンの貴婦人・細川ガラシャもまた秀吉がちょっかいを出そうとしていたようです。
忠興は本能寺の変で逆賊となった光秀の娘・ガラシャを憚って大坂・京より離れた丹後の地に幽閉していましたが、秀吉の許しも得て彼女を大阪に呼び戻します。
この許しの背景には、美女と名高いガラシャへの関心があったとか……。
さらに秀吉は、忠興を夢中にさせたその美貌を何とか拝もうと、理由をつけてガラシャを大阪城に呼び寄せました。
ガラシャもその意図を察したのでしょう、しかし夫を裏切るわけにはいくまいと、彼女は懐にひそかに小刀を忍ばせて城に上がります。
そして秀吉の前に進み出て頭を下げたとき、カシャーン!と音を立てて、彼女の懐から小刀が滑り落ちます。
下手に関係を強いたら自害しかねない、と感じた秀吉は、すっかり興ざめしてしまい、ガラシャを口説くことはなかったといいます。
秀吉をフった女たち⑥:秀の前(安子、竜造寺胤栄娘、竜造寺隆信養女、小田鎮光室、後に波多親室)
細川ガラシャ同様に、夫を裏切るまいと秀吉の目の前で懐剣を落とし、秀吉を拒絶した女性は実は他にもいます。
彼女の名前は秀の前、「肥前の熊」と呼ばれ一時は島津・大友と渡り合って九州を三分割にもしかけた戦国大名・竜造寺隆信の養女(隆信の妻と彼女の前夫・竜造寺胤栄との間に生まれた娘)でした。
一説には九州一の美女とも伝わるほどの美貌の女性でしたが、彼女の生涯は養父・竜造寺隆信によってもたらされた困難に満ち溢れていました。
最初に嫁いだ夫・小田鎮光は隆信に敵対したことで一族もろとも討ち滅ぼされてしまいます。その後彼女は養父・隆信によって波多親と再婚させられました。
この時、波多親にはすでに妻がいたとも言いますが、この妻を無理やり離縁させて秀の前と結婚させたとも……。えげつないですね。
隆信はその後沖田畷の戦いにて戦死を遂げ、ようやく彼女は養父の呪縛から逃れました。波多親とは隆信に苦労させられた者同士、仲良くやっていたようです。
……のですが、彼女の美貌はまた新たな火種を招いてしまいます。
天下人となった秀吉は朝鮮出兵のため、肥前名護屋城へ赴きます。朝鮮出兵のため、大坂の地に側室たちをおいてきた秀吉は、新たな女性を欲するようになってきます。
肥前の国人の娘・広沢局を新たに側室に迎えたりしますが、なおも女性に対する関心はやまず、九州一の美女と呼ばれていた秀の前の噂を耳にします。
秀の前の夫は当時朝鮮出兵ですでに前線に赴いており、秀吉からすると邪魔者がいない今がチャンスだ!とでも思ったのでしょう。秀の前を強引に名護屋城へ呼び寄せます。
(とはいえど、この当時秀の前はすでに四十代だったとも言われていますから、実際のところ秀吉が本当に彼女を側室に迎えようとしたかは怪しいところではあります。)
しかし夫を裏切りたくない秀の前は自害するための懐剣を懐に忍ばせ、さらにはその麗しいかんばせを火箸で焼くという強烈な方法で、拒絶の意思を示しました。
驚きを通り越して怒った秀吉は、朝鮮から戻ってきた親に難癖をつけて所領を没収してしまったといいます。その後夫の波多親は常陸の筑波山に追放されたと言います。
親と引き離された秀の前は、子供を連れて実家の竜造寺家に戻ったそうですが、養父隆信以降、竜造寺家は鍋島家によって牛耳られている有様で、あまり居心地の良かったものではなかったのでしょう。
出家して草庵を営んだといいます。
その後の彼女がどうなったのかは分かりません。一説には、自身の運命に悲嘆して、自害したとも。
秀吉をフった女たち⑦:一の台(菊亭晴季娘、三条顕実室、後に豊臣秀次側室→正室)
上臈の御方一の台の御局、前の大納言殿御娘、御年は三十路に余り給へ共、御かたち勝れ優にやさしくおはしければ、未だ二十ばかりにぞ見え給ふ。
引用:『聚楽物語』
美貌で知られていた菊亭晴季の娘は、当初公家の三条顕実に嫁ぎ、娘のおみやを儲けましたが、夫の死に伴って実家に帰っていました。
彼女の美貌の噂を聞いた豊臣秀吉は彼女を側室に迎えようとしましたが、彼女はそれを拒んで秀吉の甥で養子、そして後継者であった豊臣秀次に側室として嫁ぎます。
名門出身の美女である彼女は秀次に寵愛され、秀次の正室・若政所(池田恒興の娘)と並んで正室として遇されたようです。
しかし夫秀次と秀吉の不和、そこからの秀次の切腹により、彼女の運命は暗転します。
秀次の幼い子たち、そして妻たちは三条河原において斬首されることが決定しました。
秀次の子たちが処刑された後、秀次の寵愛を最も受けていたことを理由に、最初に引き立てられた一の台は斬首され、30代の若さでこの世を去ることとなります。
さらに、娘のおみやもまた、母の死からほどなくして13歳の若さで処刑されています。