大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にて、東大寺再建に多大な寄付をした源頼朝を「罪業が深い」と罵倒したのが。宋から渡来した技術者・陳和卿でした。
この陳和卿、実はこののち鎌倉に突如やってきて、頼朝の次男である鎌倉幕府三代目将軍・源実朝を翻弄するのですが……
ここでは陳和卿がどのような人物なのか調べてみました。
陳和卿は南宋出身で来日の経緯は不明
陳和卿は南宋出身の工人でした。
来日したのはどうも平安時代末期のようですが、実のところ、なぜ日本に来たのか理由が分かっていません。
当時の中国は分裂状態で、北は金(いわゆる騎馬民族系の征服王朝)と、南は南宋(かつての漢民族の統一王朝・宋が南に移動して再興した形の王朝)に別れていました。
しかし、陳和卿の来日前の時代は、南宋と金の間は安定(膠着状態)になっており、特に戦乱があった形跡もありません。
むしろ南宋は名君・孝宗を迎えており、かなり繁栄していました。そのため、戦乱などで逃れてきたというわけでもないようです。
もしかしたら、平氏政権下の日宋貿易にかかわっており、その関係で来日したのかもしれませんね。
平家つながりで寺院建築などの仕事の恩恵にあずかろうとしていたのかもしれません。
あるいは後述の僧侶・重源との関係によって来日した可能性もあるでしょう。
ちなみに「陳和卿」というよく知られている名前ですが、これ自身、彼の本来の名前とも思われません。
渡来してきた異邦人が、「和」=「倭」=「日本」のついた名前を持っていたというのは、どこか出来すぎているような気もします。
来日後に、日本とのつながりを強調するために「陳和卿」と名乗ったようにも思われます。
此大仏幷仏師ハ、宋人陳和卿陳仏寿兄弟二人
引用:『歴代大仏師譜』(『大日本史料』より)
ちなみに、陳和卿には弟がいたようで、この弟「陳仏寿」ともども来日したようです。
また、東大寺の再建の時には多くの宋の職人を呼び寄せていたようです。
いわゆる「工人」といっても、大工の親方というよりも大企業の社長のような人物だったのかもしれません。
陳和卿は重源と東大寺再建事業に取り組んだ
さて、平安時代末期に来日したと思われる陳和卿に、いきなり大仕事が舞い込んできます。それが、平重衡によって焼き討ちにされた東大寺の再建でした。
養和元年(1181)に東大寺勧進職についた僧侶・重源は多くの勧進僧・聖を組織して、勧進活動(寄付を集める活動ですね)にあたらせます。
また重源自身も、後白河法皇、九条兼実、そして源頼朝ら当時の貴人・権力者たちに寄付を依頼します。
重源はまた三度に及ぶ宋への渡来経験の中で、建築に対する造形を深めていました。
その結果、東大寺の再建の際に「大仏様」、当時の中国南部(南宋)の建築様式を採用しました。
陳和卿は重源の指揮下で、工人たちを組織し、東大寺再建にあたりました。
陳和卿は宋の大工や石工だけでなく、日本人の職工たちもまとめて統率し、東大寺再建の実務的な面でのトップとして尽力しました。
令大宋國陳和卿始奉鑄本佛御頭。至同五月廿五日。首尾卅余日。冶鑄十四度。鎔範功成訖。
引用:『吾妻鏡』
さらに陳和卿は、東大寺再建時には東大寺大仏の仏頭の鋳造に取り組むなど、様々な大役を任せられていました。
頼朝、院宣を奉じて、伊賀国山田郡有丸、広瀬、阿波杣山の地頭を停め、宋人陳和卿をして之を領せしむ、尋で院庁下文を下す、
引用:『大日本史料』
東大寺再建中の建久元年(1190)には、それらの功績をたたえてか、宋の人でありながら荘園の領主(地頭)にもなっています。かなり身辺は潤っていたものでしょう。
陳和卿と源頼朝
將軍家、御參大佛殿爰陣和卿、爲宋朝來客、應和州巧匠、凡厥拜慮遮那佛之修餝、殆可謂毘首羯摩之再誕、誠匪直也人歟仍將軍、以重源上人、爲中使、爲値遇結縁、令招和卿給之處、國敵對治之時、多斷人命、罪業深重也不及論之由、固辭再三將軍、抑感涙、奥州征伐之時、以所著給之甲冑并鞍馬三疋金銀等、被贈和卿賜甲冑、爲造營釘料、施入于伽藍止鞍一口、爲手掻會十列之移鞍同寄進之其外龍蹄以下、不能領納、悉以返献之〈云云〉
引用:『吾妻鏡』
陳和卿は、東大寺再建の際の工人たちのトップとして高貴な身分の人々にも認知されていました。
特に東大寺落成式のために上洛していた源頼朝は、東大寺大仏の鋳造に取り組んだ陳和卿を、毘首羯磨(仏教において帝釈天の家来で、建築や工芸をつかさどる神)になぞらえて、ぜひ面会したい!と強く望んだそうです。
そこで、頼朝に勧進を依頼した重源が仲立ちをして、頼朝と陳和卿の面会を実現させようとしました。
しかし、陳和卿は一筋縄ではいかない人物でした。
彼はなんと、「頼朝は平家をはじめとした多くの人の命を奪ってとっても罪深いから会いたくないです!」とけんもほろろに断ってしまいます。
頼朝は大激怒……かと思えば、かえってこの言葉に深い感銘を受けたようで、奥州合戦時に使用していた甲冑や鞍、馬3頭、金銀を陳和卿に献上しました。
しかし陳和卿は釘に出来る甲冑、東大寺に寄進できる鞍のみを受け取ってすべてを頼朝に突き返したといいます。
なんというか、職人気質の超絶頑固おやじだったんでしょうかね。陳和卿。
この出来事(建久六年【1195】)に先立つこと5年前、建久元年(1190)には、頼朝の承認によって荘園を手にしているというのに……。
東大寺再建後のトラブルと窮乏
院庁、宋人陳和卿の東大寺領播磨国大部荘等を濫妨することを停む、
引用:『大日本史料』
しかし、東大寺再建の立役者として今後悠々自適の生涯を遅れたであろう陳和卿に、突如としてトラブルが降りかかります。
陳和卿は東大寺再建に伴って5か所の荘園をもらっていたのですが、重源に寄進し、東大寺再建の費用の一助にしようとしていました。しかし、寄進後も荘園経営に関与していたのです。
そのことを逆手に取られ、東大寺の僧から、それらの荘園で略奪をしているなどと騒ぎ立てられ、荘園はもちろん、東大寺再建事業から追放されてしまうのです。
時は元久三年(1206)のことでした。その後、陳和卿は10年間、歴史の表舞台から姿をくらまします。
彼がどのようにして暮らしていたのかはわかりません。当時、東大寺再建にかかわっていた陳和卿の弟子のような工人たちの世話にでもなっていたのかもしれません。
ただこの10年間で陳和卿の心境には多くの変化が訪れていたことは間違いないでしょう。彼は、10年間の沈黙を破り、建保四年(1216)に、いきなり鎌倉に姿を現すのです。
陳和卿と源実朝
陳和卿參着。是造東大寺大佛宋人也。彼寺供養之日。右大將家結縁給之次。可被遂對面之由。頻以雖被命。和卿云。貴客者多令断人命給之間。罪業惟重。奉値遇有其憚云々。仍遂不謁申。而於當將軍家者。權化之再誕也。爲拝恩顏。企參上之由申之。
引用:『吾妻鏡』
建保四年(1216)6月、陳和卿はいきなり鎌倉に姿を現します。
そしてかつてはけんもほろろにことわった鎌倉幕府将軍との面会を乞うのです。
その理由は「今の将軍様は権化(=権現。仏や菩薩がこの世に仮の姿で降臨した姿)であるから」というものでした。
この時代の鎌倉幕府将軍は頼朝の次男で三代目将軍・源実朝です。
実朝もさすがに胡散臭さを感じたのかすぐには会いませんでしたが、陳和卿はかなり熱心に面会を望んだようです。ついに根負けして陳和卿に会うことにします。
当時の執権・北条義時らはこの陳和卿をなぜ追い出したりしなかったんでしょうね。大したことは出来ないだろうと見くびっていたんでしょうか。
召和卿於御所。有御對面。和卿三反奉拝。頗涕泣。將軍家憚其礼給之處。和卿申云。貴客者。昔爲宋朝醫王山長老。于時吾列其門弟云々。此事。去建暦元年六月三日丑尅。將軍家御寢之際。高僧一人入御夢之中。奉告此趣。而御夢想事。敢以不被出御詞之處。及六ケ年。忽以符号于和卿申状。仍御信仰之外。無他事云々。
引用:『吾妻鏡』
将軍実朝と面会した陳和卿は、現代の感覚からするとなかなかとんちきな話を出します。
「将軍様は昔、宋の育王山(重源ともかかわりのある南宋の有名寺院・阿育王寺)の長老でございました。私はその長老に門弟として仕えていたのでございます……。」
こんなとんちきな話ですが、実朝は信じ込んでしまいます。
なんと、この5年前、とある高僧に夢の中で、同じようなことを言われていた上に、そのことを実朝は誰にも話していなかったのです。
そこで、実朝はこの胡散臭い宋人・陳和卿をすっかり信頼してしまいました。
さて、この話、どこまで真実なのでしょう。
將軍家自簾中御覽。召兩人於御前之縁。給盃酒之間。被仰曰。二人共殞命在近歟。一人者可爲御敵。一人者候御所者也云々。各有怖畏之氣。懷中鍾早出云々。
引用:『吾妻鏡』
是將軍家去夜有御夢想。義盛以下亡卒群參御前云々。
引用:『吾妻鏡』
実朝はたびたび夢の中でお告げのようなものを受け取る、幽霊の姿を夢に見るなど、一種の霊感のようなものがあったようです。
そのことは『吾妻鏡』などでも何度か描写されています。
おそらく実朝本人が覚えていないだけで、鶴岡八幡宮や鎌倉の僧の誰か辺りにでもしゃべってしまい、それが陳和卿の耳に届いて……というのが一番ありそうなストーリーのような気がします。
陳和卿の大船
將軍家爲拝先生御住所醫王山給。可令渡唐御之由。依思食立。可修造唐船之由。仰宋人和卿。又扈從人被定六十餘輩。朝光奉行之。相州。奥州頻以雖被諌申之。不能御許容。及造船沙汰云々。
引用:『吾妻鏡』
陳和卿の話を聞いていた実朝に、俄然宋への強い関心が沸き起こります。
当時、すでに実権は叔父にあたる義時の手にあり、実朝は名ばかりの将軍職に甘んじているような状態でした。
実朝の関心と言えば、自身の位階の昇進(最終的に右大臣にまで上ります)、そして和歌といった趣味ばかりでした。
自分が鎌倉に居なくたって構わないだろう―そんな思いからか、陳和卿との面会からおよそ半年後の建保四年(1216)の11月に、実朝は陳和卿に造船を命じます。
それは宋に行くことのできる船で、実朝を含め60名もの人員を収容できるほどの「大船」でした。
陳和卿本人もびっくりしたことでしょう。
かつては東大寺再建に取り組んだとはいえ、おそらく陳和卿が専門としていたのは寺院の建築、寺院の仏像などの製作です。さすがに船は専門外だったと思われます。
しかし、陳和卿に断る道はありません。陳和卿は自分の知識を総動員し、そして実朝の名のもとに工人たちを集めて船を作ったことでしょう。
宋人和卿造畢唐船。今日召數百輩疋夫於諸御家人。擬浮彼船於由比浦。即有御出。右京兆監臨給。信濃守行光爲今日行事。随和卿之訓説。諸人盡筋力而曳之。自午剋至申斜。然而此所之爲躰。唐船非可出入之海浦之間。不能浮出。仍還御。彼船徒朽損于砂頭云々。
引用:『吾妻鏡』
陳和卿が必死に作り上げた大船ですが、さらに半年後の建保五年(1217)に完成します。
しかしこの船は、由比ヶ浜で仮に曳航させたところ、全く浮くことはありませんでした。
最終的に船は打ち捨てられて、そのまま砂浜で朽ち損じてしまったといいます。
その後、陳和卿がどのようになったのかはよく分かりません。
恥を忍んで将軍実朝の世話になっていたのかもしれませんが、彼の庇護者であった実朝もまた、ここから2年もたたない建保七年(1219)に、甥の公暁によってその命を絶たれることとなります。
その仏教建築に関する知識をもってして、どこぞの寺院にでも身を寄せたのか。弟・仏寿ら親交がある職人たちのもとに身を寄せたのか。
はたまた年老いた体に鞭をうちながら、30年以上前に離れた故郷・南宋へ戻ったのか。
すべては謎のままです。