源頼朝と北条政子の血筋は孫娘・竹御所の死をもって途絶えました。頼朝の庶子もまた、出家していたため子孫を残すことはありませんでした。
頼朝の兄弟たちも大半が非業の死を遂げ、かろうじて異母弟・阿野全成が子孫を残しましたが、全成の失脚もあり、幕政に関わることはありませんでした。
頼朝直系の血が途絶えた後、四代目将軍として迎え入れられたのは、頼朝の姉妹・坊門姫の子孫でした。
ここでは、河内源氏棟梁・源義朝の血をつないだ坊門姫について紹介していきます。
坊門姫とは?
坊門姫は、源義朝と正室・由良御前の間に生まれた一人娘で、頼朝の同腹の姉妹にあたる女性です。
頼朝や同母弟・希義らは流罪に処されましたが、坊門姫は女児であったということもあったのでしょう、流罪になることはありませんでした。
父や兄弟たちがいなくなった後は、父・義朝の家人であった後藤実基のもとに引き取られたといいます。
京にてすくすくと成長した坊門姫は、都の公家と結婚することになります。結婚相手は一条能保という公家でした。
一条能保は後白河院の姉・上西門院と関係が深かったのですが、坊門姫の母・由良御前もまた上西門院女房だったといいますから、その縁で結ばれたのでしょう。上西門院も仲介したのかも?
京にて公家の妻としてひそやかに生活していた坊門姫ですが、兄・頼朝の挙兵、そして鎌倉幕府成立により、彼女もまた表舞台に出てくることとなります。
頼朝は坊門姫を通して朝廷との関係を築こうと画策したようで、文治二年(1186)には坊門姫を後鳥羽天皇の乳母にしようと画策します。(最終的に坊門姫の娘・一条保子が乳母となりました。)
しかし頼朝に先立って建久元年(1190)に、坊門姫は産褥死することとなります。
すでに多くの兄弟たちを見送っていた頼朝からしても、やはり同母姉妹の死はたいそう衝撃だったようで、非常に悲しんだと伝わります。
坊門姫の子供たちは、鎌倉との縁もあってか摂関家や清華家へ嫁ぎ、坊門姫、ひいては源義朝の血を後世に伝えました。
坊門姫の名前の読み方や意味は?
「坊門姫」という名前は『平治物語』中における「坊門の姫」という呼び名に由来します。
坊門姫という名前は、あくまでも通称であり、彼女の本名(諱、幼名など)は全く分かっていません。「坊門姫」の名前は、おそらく京の「坊門小路」にちなんだものでしょう。
坊門小路とは、二条、三条、四条など大路の真ん中を貫くように存在した小路で、例えば「三条坊門小路」、「四条坊門小路」などがありました。
もしかしたら、彼女の邸宅などが、この坊門小路にあったのかもしれません。
名前の読みはそのまま「ぼうもんひめ」ということになりますね。
坊門姫は源頼朝の同母姉?それとも同母妹?
佐々木左衛門尉定綱飛脚參着。申云。去十三日亥刻。右武衛〔能保〕室依難産卒給云々。二位家殊歎息給。今年四十六云々。
引用:『吾妻鏡』
さて、実は坊門姫の生年はよく分かっていません。大きく分けて2説があり、その2説で10年の差があるため、頼朝の姉、もしくは妹どちらかも判明していません。
確実に言えるのは、頼朝の同母姉妹(生母が源義朝正室・由良御前)であることは間違いなさそう、ということくらいでしょうか。
『吾妻鏡』によると、彼女は建久元年(1190)に数え年の46歳(満年齢44~45)で亡くなっており、久安元年(1145年)生まれということになるのですが……。
彼女の死因は、実は産褥死であるため、46歳で妊娠するというのは少し不自然なような印象も受けます。
また、『平時物語』では、「平治元年(1159)時点で数え年6歳(満年齢は4歳~5歳)」で、久寿元年(1154)頃の生まれということになります。
『吾妻鏡』の享年46が、実は36の間違いだったならば、こちらでもおかしくはないということになります。
どちらが正しいのかは、今の時点では判明していません。
仁安二年(1167)に娘(九条良経の妻)を産んでいることを踏まえると、久寿元年(1154)生まれとするには少し若い(満年齢13~14で出産)ような気もします。
個人的には、頼朝の同母姉で、久安元年生まれとするのが、やはり適当なような気がします。
『平治物語』は、頼朝の死後に成立した軍記物語ですから、いろいろと脚色していてもおかしくないような。『吾妻鏡』は一応幕府公式の歴史書ですからね。
坊門姫の子孫は?
左大臣〔道家公〕賢息〔二歳。母公經卿女。建保六年正月十六日寅刻誕生〕下向關東。是故前右大將後室禪尼重將軍舊好之故。
引用:『吾妻鏡』
坊門姫の子孫として、おそらく一番有名なのは摂関家である九条家出身の九条三寅こと、鎌倉幕府4代目将軍・九条(藤原)頼経でしょう。頼経は坊門姫のひ孫にあたります。
摂関家の一つ・九条家に嫁いだ娘の産んだ男子と、関東申次を歴任し鎌倉時代に朝廷で絶大な権力を誇った西園寺家に嫁いだ娘が産んだ女子が、従兄弟婚をして、その間に生まれたひ孫でした。
九条家はその後、一条家、二条家と分家を輩出します。さらに、九条家から近衛家に嫁いだ娘がいるため、近衛家にも坊門姫の血は継承されました、
摂関の座につける五摂家(近衛家、九条家、一条家、二条家、鷹司家)のうち、鷹司家以外は坊門姫の流れを受け継いでいます。
鷹司家も室町時代に一条家の娘と婚姻をしていたりするので、鷹司家も坊門姫の流れを組むと言えるかもしれません。
さらに、坊門姫のひ孫にあたる西園寺姞子は、後嵯峨天皇中宮となり、後深草天皇と亀山天皇を産みました。後深草天皇は現在の天皇家の直系の先祖でもあるため、天皇家にも坊門姫の血は受け継がれました。
西園寺家は天皇の外戚になっただけでなく、「関東申次」という、鎌倉と京のパイプ役を果たしており、鎌倉時代を通して絶大な権力を持っていました。
ちなみに、後深草天皇の息子・久明親王は、のちに鎌倉幕府の8代目将軍となっています。
さらに言うならば、鎌倉幕府の4代目以降の将軍のうち、6代目将軍・宗尊親王以外は、すべて坊門姫の血をひいています。
宗尊親王自身も、坊門姫の玄孫にあたる近衛宰子と結婚しているため、義理の子孫と言っても良いかもしれませんね。