さて、頼朝死後、「鎌倉殿の13人」こと13人の合議制メンバーが選ばれたことは有名ですよね。そして、それに対して、頼家は自分の近習5人を指名して、彼らに特権を与えていました。
将軍が自分に近い人たちを指名して何らかの集団を形成させる……というのは、実は頼朝の時代からあったことでした。
頼朝は自分の寝所を警護する武者たち11人を指名しています。彼らは「家子」と呼ばれ、頼朝の側近とみなされていました。
頼朝の寝所警護衆「家子」はどのように選ばれたのか?
御家人等中、撰殊達弓箭之者亦無御隔心之輩、
引用:『吾妻鏡』
頼朝の寝所警護衆たちが選ばれたのは、養和元年(1181年)の4月のことでした。頼朝はこの前年に鎌倉入りしたばかりでした。
鎌倉殿と呼ばれるようになり始めたものの、まだ身辺騒がしい頼朝ですから、できるだけ信頼できる人を無防備になる寝所の警護として任命したいと考えてもおかしくないでしょう。
また、「お前は信頼できる」とアピールすることで、御家人たちの裏切りを防ごうとしたのかもしれません。
頼朝が寝所警護衆11人を選定した際に重要視したポイントは、①裏切らない事、②特別に弓の腕に優れている事、の2点だったそうです。
ただ、選ばれた人たちを見る限り、どちらかというと②弓の腕に優れているというポイントよりも、①の裏切らない事、という点に重きを置いた選出だったように思われます。彼ら寝所警護衆の多くは、有力御家人の一族出身でありました。
頼朝の寝所警護衆「家子」筆頭(①):北条義時
毎夜可候于御寢所之近邊之由、被定 江間四郎 下河邊庄司行平 結城七郎朝光 和田次郎義茂 梶原源太景季 宇佐美平次實政 榛谷四郎重朝 葛西三郎清重 三浦十郎義連 千葉太郎胤正 八田太郎知重
引用:『吾妻鏡』
頼朝の寝所警護衆の筆頭格であったと思われるのが、「江間四郎」こと北条時政次男で、この時には亡き兄宗時に代わって事実上北条時政の後継者の地位にあった、北条義時です。
「江間」というのは、伊豆国の江間郷のことで、彼は伝承では八重姫の夫だったという江間小四郎死後、江間郷を得ていたことから、「江間四郎」と名乗っていました。(もともと義時は次男だったので、家を継ぐことは期待されておらず、分家のような立場だったんですね。)
義時は、頼朝からすれば義弟(正妻・北条政子の弟)ということもあり、たいそう信頼を寄せられていたことでしょう。この時にも、最初に名前を挙げられています。
頼朝の寝所警護衆「家子」②:下河辺行平
下河辺行平は俵藤太こと藤原秀郷の子孫である下野小山氏の庶流の出身で、下総国の下河辺荘の荘園の領主格(「庄司」)であったことから、「下河辺」を名乗っていました。
もともとは以仁王とともに挙兵した源三位頼政と関係が深かったようですが、頼政の死後頼朝に接近します。
下河辺行平は、当時の武士の中でも有数の弓の名手とたたえられていました。頼朝直々に「日本無双の弓取」とまで称賛され、頼朝の嫡男・頼家の弓の師匠でもありました。彼は多くの戦に参戦し、一の谷の戦いでは先鋒を切るなど大活躍します。
頼朝死後は影が薄くなりますが、畠山重忠の乱では幕府方として参陣していることが分かっています。
行平の弟である政義の子孫は「長谷川氏」を名乗り、江戸時代に至って「鬼平」こと火付盗賊改役・長谷川平蔵宣以を輩出しています。
頼朝の寝所警護衆「家子」③:結城朝光
數千許輩一同靜謐就中使者、勇士容貌、美好、口辨分明匪啻達軍陣之武略已得存靈場之禮節、何家誰人哉之由、同音感之、爲後欲聞姓名、可名謁之旨、頻盡詞朝光、不稱小山、號結城七郎訖、歸參〈云云〉
引用:『吾妻鏡』
頼朝の乳母である寒河尼の息子で、下野国の小山政光の七男。この前年に元服したばかりで、このころにはまだ10代前半だったようです。
実は寒河尼の娘と頼朝の間に生まれた庶子だなんて説もありますが……さすがに嘘みたいですね。
頼朝からは乳母子ということもあって非常に寵愛されていたようです。弁舌爽やかで礼儀正しく、美しい容姿をした武者だったと伝わります。
頼朝死後はやっかみもあって少し苦しい立場に追いやられますが、梶原景時の断崖に一役買うなど、抜け目なく立ち回り、評定衆にまでのし上がりました。87歳で大往生を遂げています。
結城朝光の子孫は結城氏を名乗ります。
戦国時代の終わりごろに、徳川家康の次男で秀吉の猶子でもあった秀康を養子として迎え入れます。秀康の子の代からは松平氏に復姓しますが、下総結城氏の祭祀や、家紋の三頭右巴紋は以後も引き継がれることになります。
頼朝の寝所警護衆「家子」④:和田義茂
「鎌倉殿の13人」こと和田義盛の弟にあたります。弓の名手として知られていました。
兄の義盛はのちに和田合戦で一族もろとも滅亡しますが、弟の義茂は和田合戦に参戦したかどうかは不明です。というか義茂に関する記録は、『吾妻鏡』においては、寿永元年(1182年)頃を最後に途絶えています。
もしかしたら、源平合戦や奥州征伐などの際に早世したのでしょうか。
ただ義茂の息子・重茂が「高井」を名乗っていることから、和田方で死亡した武将・「高井兵衛」が、義茂のことでは?とも言われています。
彼の息子である高井重茂は、和田合戦の際には北条方として出陣、従兄弟(伯父義盛の三男)である朝比奈義秀と戦って死亡しています。
重茂は、相模国の南深沢荘・奥山荘の領主であり、彼の子孫は後に和田氏に復姓、越後和田氏、三浦和田氏を形成しました。越後和田氏からは戦国時代の上杉家の家臣・中条氏を輩出しています。
ちなみに、伊達政宗の従兄弟で重臣でもある伊達成実の祖母は、中条氏の出身だったりします。(伊達成実の父・実元は上杉家家臣中条氏の縁から、一時越後守護上杉家に養子入りする話までありました。)
頼朝の寝所警護衆「家子」⑤:梶原源太景季
梶原景時の嫡男・景季もまた頼朝の寝所警護衆に任命されていました。
景季は、勇猛果敢な性格で、『平家物語』などにも、宇治川の先陣争いや一の谷の戦いにおける梶原の二度駆けなど、その奮戦ぶりが記されています。
その一方で、父景時同様に文学に明るいところもあったようで、奥州征伐時には白河関(古来より歌枕として有名でした)で和歌を詠じています。寝所警護の際に、頼朝と和歌などについて話すこともあったかもしれませんね。
頼朝にも将来を期待されていただろう景季ですが、頼朝死後、父景時ともども鎌倉から追放され、後に自害をしています。
頼朝の寝所警護衆「家子」⑥:宇佐美実政
伊豆国田方郡大見庄の武士。兄の宇佐美政光ともども、石橋山の戦いのころから頼朝配下として活動していました。
頼朝の鎌倉入りに際して武功を上げ、御家人として重んじられるようになりました。
奥州合戦では比企能員ともども北陸道から攻め入り、頼朝死後はその功もあってか、津軽奉行に任ぜられました。しかし奥州藤原氏の残党であった大河兼任が反乱を起こした際に、彼によって討ち取られてしまいました。
ちなみに、宇佐美実政死後、大河兼任征伐の軍として、同じく寝所警護衆であった千葉胤正が奥州に出陣しています。
頼朝の寝所警護衆「家子」⑦:榛谷重朝
坂東八平氏・秩父氏の出身で、兄の稲毛重成は北条時政の娘婿でもありました。従兄弟には同じく時政の娘婿であった畠山重忠がいます。苗字の由来は勢力下にあった荘園・榛谷御厨から。現在でも横浜の二俣川あたりに「半々谷」という地名が残っています。
弓の名手、乗馬の名手としても名高く、頼朝に従って犬追物や小笠懸などに参加しています。一の谷の戦い、奥州合戦、梶原景時の変、比企能員の変など、様々な戦乱に巻き込まれますが、いずれも幕府方として生き延びました。
しかし、元久二年(1205)の畠山重忠の乱において、重忠謀殺の罪を着せられ、鎌倉において息子の重季、秀重ともども三浦義村に討たれます。
ここに秩父氏庶流・榛谷氏は族滅し、榛谷御厨は鎌倉幕府の直轄領になります。
頼朝の寝所警護衆「家子」⑧:葛西清重
坂東八平氏・秩父氏の庶流の豊島清元の三男。苗字の由来は下総国の葛西御厨から。『沙石集』では「弓箭の道に優れた人」と述べられ、『曽我物語』中でも馬術の腕を称えられるなど、非常に技量の高い武士でした。
石橋山の戦いで安房に逃れた頼朝の求めに応じ、配下に加わりました。彼の働きのおかげか、同族の畠山氏、河越氏、江戸氏もまた、頼朝の配下に加わります。
頼朝の忠実な武将として彼は振る舞い、時には自らの妻を頼朝の夜伽にと差し出したことまであったとか。(清重はそのお礼として丸子荘を得ています。)ちなみにこの妻については、畠山重忠の姉妹とも、同じく寝所警護衆であった千葉胤正の娘とも言われていますが……真相は不明です。
奥州征伐でも先陣を果たすなど奮戦し、初代奥州総奉行に任ぜられていました。
ちなみに彼の娘の一人は、「鎌倉殿の13人」のメンバーの一人、八田知家の妻だった!という説があります。(八田知家はむしろ清重よりも年上の可能性が高いので、さすがに信ぴょう性が薄いですが。)
もしかしたら義理の孫(八田知重こと小田知重)と一緒に寝所警護をしていたのかもしれないですね。
葛西清重の子孫は、各地に移住しますが、その中でも奥州葛西氏が最も栄えたといってもいいでしょう。
奥州葛西氏は戦国時代まで続きますが、小田原参陣の遅れを理由に秀吉から所領を没収され、没落しました。
ちなみにこの時代には、葛西氏は同じく寝所警護衆であった千葉胤正の子孫・千葉氏の武士を養子に迎えることもあったとか。意外なところでつながってきますね。
頼朝の寝所警護衆「家子」⑨:三浦義連
三浦義連は、「鎌倉殿の13人」こと13人の合議制メンバーの一人である三浦義澄の弟で、三浦義村の叔父にあたります。また、彼の姉妹には、頼朝の父である義朝の側室である悪源太義平の母がいたとも。
相模国の佐原城に拠点を置いたことから、「佐原義連」とも名乗りました。
一の谷の戦いに従軍し、頼朝の配下としていわゆる「鵯越(ひよどりごえ)」を果たしたことでも知られています。
三浦義連の息子・佐原盛連は三浦義村の娘で、かつて北条泰時と結婚していた矢部禅尼の再婚相手となりました。佐原盛連と矢部禅尼の間に生まれた子たちが、義村の嫡子・泰村の横死後に三浦氏を継ぐこととなります。
頼朝の寝所警護衆「家子」⑩:千葉胤正
上総広常とともに頼朝に臣従した千葉常胤の嫡男。「千葉新介」とも称しました。前述の宇佐美実政が死去した後、奥州の大河兼任の乱の鎮圧にもあたり、これを成功させています。
彼の子孫は千葉氏を名乗り、戦国時代まで続きます。彼らは小田原の後北条氏の姻戚となることで、その庇護下に入りますが、千葉氏の当主たちはたびたび暗殺されるなど、混迷は続きました。
千葉氏は最終的に小田原征伐で後北条方についたため所領没収となります。千葉氏の一部は、仙台藩やその分家である一関藩に仕えたと伝わります。また、奥州各地において、現地の有力者層を形成しました。
頼朝の寝所警護衆「家子」⑪:八田知重(小田知重)
「鎌倉殿の13人」こと常陸守護・八田知家の嫡男。頼朝の乳母・寒河尼の甥にあたります。
寒河尼の息子で、従兄弟にあたる結城朝光ともども、頼朝の寝所警護衆「家子」の一員となりました。父の知家は、鎌倉においては自分の名代としてたびたびこの息子を出しており、後継ぎとして父親からもかなり期待されていたようです。
彼の子孫は小田を名乗ります。彼の末裔小田氏治は、「戦国最弱の大名」などとも言われています。小
田氏治の娘は、結城朝光の末裔の家に養子に入った徳川家康の次男・結城秀康の側室となっており、氏治は最終的に結城家の世話になりました。