市場姫 家康の唯一?の異母妹

中世史(日本史)

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※当記事は各種書籍・史料を参考に作成していますが、最新の研究で否定された内容など誤った情報を含んでいる可能性もあります。それを踏まえてお読みくださいませ。

家康の父・広忠は若くして亡くなっていますが、幾人かの子を残しています。

広忠唯一の娘として名前が挙がるのが、荒川氏、また離縁後に筒井定次に嫁いだとされる市場姫です。(広忠には長沢松平氏に嫁いだ「矢田姫」という娘がいたという説もあるので、実際に唯一の娘だったかは不明瞭ですが……。)

ここでは、家康唯一の異母妹ともいえる市場姫について調べてみました。

市場姫の父は松平広忠、母は継室にあたる戸田康光娘・真喜姫もしくは側室・平原氏

女子 初荒川甲斐守頼持(=荒川義広)妻此所ニテ一女ヲ産 此一女成長シテ酒井備後守忠利妻ト成ル 筒井伊賀守定次妻に被下置 市場殿 法名 宝鏡院殿

引用:『徳川幕府家譜』

光現君ハ●大納言(広忠)家の御女、東照宮の御妹、花慶君(戸田康光女)の御所生なり、天文十四年●御生●、市場姫君と申奉る、

引用:『戸田家系校正余録』
※●…判読不明文字です

家康の唯一の異母妹とされる市場姫ですが、いつのころに生まれたかは不明です。一説には天文十四年(1545)生まれだと伝わります。

実母とされる真喜姫と広忠の結婚が天文十四年(1545)のことだと言われていること、かつ広忠が天文十八年(1549)に亡くなっていることを考えるならば、やはり天文十四年(1545)~天文十八年(1549)末の間に生まれた可能性が高く、天文十四年生まれというのは理にかなっているっように思われます。

天文十一年(1543)生まれの家康とは3歳ほど年が離れていたと思われます。

ただ兄の家康は天文十六年(1547)には織田家、後に今川家の人質となり、岡崎の地をはなれていましたから、幼少期に会うことはほとんどなかったものと思われます。

一緒に遊んだりとかもなかったのではないでしょうか。

市場姫の最初の結婚相手は八ツ面城主・荒川義広

荒川ハ初吉良ノ幕下也 永禄四吉良ヲ背キ御家来リ忠戦有テ 家康公御感有テ 御妹君嫁セシム

引用:『徳川幕府家譜』

長じた市場姫は、八ツ面城主・荒川義広に嫁ぎます。

嫁いだ時期には諸説ありますが、一説には永禄四年(1561年)だといいます。

市場姫が天文十四年(1545)生まれだとするならば、数えで17歳になるころだったと思われます。

この時にはすでに今川義元が討たれ今川家が衰退の一途をたどっているときであり、兄の松平元康(徳川家康)は、たびたび三河国の有力家門・吉良氏を攻めていました。

その際に助力した荒川義広に、家康は市場姫を娶らせたのです。

夫となった荒川義広は、もともと足利氏の流れをくむ名門・東条吉良氏の出身でしたが、家督を兄が継いだため、荒川を名乗っていました。

しかし兄が早世、その後ごたごたの末に、敵対していた西条吉良氏の吉良義昭が、今川義元の後ろ盾の元、東条吉良氏の家督までも継承してしまっていたのです。

義広が吉良氏から離反し、松平氏に与したのはそのあたりも影響していたのでしょう。

市場姫はこの婚姻で、荒川弘綱、荒川家儀、松平親能に嫁いだ娘・木崎殿の二男一女(一説には木崎殿のみ)を儲けたといいます。

市場姫と三河一向一揆

同●七年、故ありて、義広とと●●●の居城八面をさりて、寄近村という所へ…(中略)…同●十年九月廿九日、義広死●し後、御所生●御子二男一女、をたつさへて御里へ帰らせらる、

引用:『戸田家系校正余録』

※●…判読不明文字です

しかし結婚からさほど経たない永禄六年(1563)に、三河一向一揆が勃発します。

市場姫の夫・荒川義広はこの時、かつては敵対していた吉良義昭と手を組んで一揆側に立ちました。

理由は分かりませんが、今川氏に代わって西三河における影響力を強めていた家康に対する意趣返しでもあったのかもしれません。

しかし、家康は強かでした。

家康は、吉良氏の東条城を陥落させ、吉良義昭を三河国から追い出します。荒川義広の八ツ面城も攻められて、義広は追放されることとなりました。

その後の義広がどうなったかは諸説あります。河内国に落ち延びたとも、吉良の地にて蟄居し、永禄九年(1566)頃に亡くなったとも。

しかし、いずれにせよ最終的には市場姫とは離縁となりました。

市場姫は謀反を起こした夫を持ったとはいえ、家康の妹であるということもあり、咎められることなく家康の元に戻りました。

子供たちも家康に召し抱えられるなどしているため、罪を減じられていたのでしょう。

市場姫は再婚したのか?~市場姫と筒井定次の結婚~

夫・荒川義広と別れた市場姫がどうなったのかは、諸説あります。

ただ家康としても、政略結婚の駒となる妹を再婚させずにいたとは考えづらいように思われます。

ですからおそらく、市場姫は再婚したのではないでしょうか。

市場姫の再婚相手と言われるのが、筒井順慶の養子であった筒井定次です。

ただ定次は、永禄五年(1562)生まれであり、市場姫から10歳以上年下となってしまいます。

むしろ市場姫の生年(天文十四年~十八年頃)などを考えると、定次よりはむしろ定次の養父・筒井順慶(天文十八年生まれ)のほうが同年代だったりします。

むしろ順慶と結婚していた方が自然ではあるのですが……。

ちなみに、筒井順慶の妻であった織田信長の娘(もしくは妹)が、信長の養女となった市場姫だったのでは?という説もあるようです。

また、筒井定次と結婚していたという体で話を進めていく場合、もう一つ、この再婚を考えるにあたって、障壁があります。

というのも、筒井定次は天正六年(1578)もしくは天正二十年(1592)以降に織田信長の娘・秀子と結婚していると言われています。

市場姫は文禄二年(1593)に亡くなっているとの伝承もありますから、もしも定次と秀子との婚姻が文禄二年(1593)以後なら、市場姫は筒井定次の前室だったのでしょう。

しかし、もしも秀子との婚姻が天正六年(1578)のことだったら、市場姫はその際に側室に降格したか、もしくは当初から側室として輿入れしていたということになるかと思われます。

市場姫がこの婚姻で子をなしたかどうかは不明です。

筒井定次の二人の息子(順定、春次)はいずれも江戸時代、慶長年間に秀子との間に生まれた子であるため、市場姫は定次の息子を産むことはなかったようです。

しかし、定次には幾人か娘がいたため、その娘たちの何人かはもしかしたら市場姫の所生だったのかもしれません。

市場姫の死

市場姫の死がいつのころなのか、実はよく分かっていません。

文禄二年(1593)、40代半ばで亡くなったという説もありますが、もっと長生きして江戸時代の寛永十年(1633)ごろまで生存していたという説もあります。

寛永十年ごろに死去となると、市場姫(天文十四年【1545】生まれと考えられる)は、88歳!で大往生を遂げたことになりますね。

兄・家康が当時としてはかなり長生きだったことなどを考えると、妹である市場姫もそのくらい長生きしてもおかしくはないかもしれません。

寛永年間に亡くなったとする説ではまた、孫娘の嫁ぎ先である酒井家の世話を受けて生活していたともいいます。

偉大なる神君・家康の妹として、多くの人々の崇敬を集めていたことでしょう。

市場姫の子孫

市場姫の子だと確実にいうことが出来るのは、荒川義広との間に儲けた木崎殿(松平親能室)だけのようです。

ただ、義広の二人の息子が家康に厚遇されていることを思えば、二人の息子たちもまた市場姫の所生である可能性が高いでしょう。

木崎殿は、松平氏の分家の一つ・長沢松平家の松平親能に嫁ぎ、老中となった河越藩主(後に小浜藩主)酒井忠勝の妻となった娘などを産んでいます。

ちなみに、『徳川幕府家譜』では、木崎殿は酒井忠勝の父・酒井忠利に嫁いだことになっていますが、おそらくこのあたりの系譜が混同されたのでしょう。

市場姫のひ孫(酒井忠勝と木崎殿娘の間に生まれた娘)である松平康政正室の血筋は、水野氏を経由して公家・勧修寺家へとつながり、最終的に皇室にも繋がっています。

市場姫の息子(長男)と考えられる荒川弘綱は、伯父・家康に重用され、三千石の所領を得ます。

しかし後継者に恵まれず、家康の甥(家康の異父弟の子)である松平定綱を養子に迎えていましたが、彼は結局荒川の名を継がず、松平を名乗るようになりました。

なぜ荒川の名を継がなかったのか?

なんでも、荒川家内では、養子の定綱ではなく、荒川家の血筋の人間を後継ぎにしようとした跡目争いがあったらしく、家康がそれを不愉快に思ったようです。

結局、荒川家はここに絶えることとなりました。

ただ、市場姫の次男・家儀の家系は続いています。

家儀は、松平忠吉(家康の四男で秀忠の同母弟)に仕えた後に、尾張藩士となり、その子孫は尾張藩で寄合衆、同心、太刀折紙之衆などを務めたことが記録に残っています。

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